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No.1265 3人の幼子を連れて満洲から脱出 ~ 藤原てい『流れる星は生きている』


 ソ連の侵攻から逃れ、6歳、3歳、1ヶ月の幼児を抱えた母親が満洲から日本を目指した。

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■1.乳飲み子を抱えての満洲脱出

 夜10時半頃、はげしく戸を叩く音がしました。夫とともにドアを開けると、同じ気象台で働く若い二人の男性が立っていた。「藤原さん、すぐ役所に来てください」。夫が「一体なんですか」と聞くと「何だかわかりませんが、全員を非常召集しているのです」。

 昭和20年8月9日、満洲の新京(現在の長春)。この日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って、満洲への侵略を開始したのです。妻のていさんは「やっぱり来るときが来たのね」と、狭い廊下に坐ると急に力が抜けたように、夫の丹前の裾を持ったまま、ふるえていました。

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「馬鹿、なにいっている、早く用意をするのだ。すぐにでもここを出られるような用意を」
「ここを出るって、この家から出てどこへ行くんですか?」
「それは僕にもわからない。出るか出ないかもまだわかってはいない。ただその心構えが必要なんだ」

 夫は身支度をすると、急いで出て行きました。ていさんは八畳の部屋に寝ている子供たちの顔を見ると、とてもこの家を離れて遠くには行けそうに思えませんでした。正広君が六歳、正彦君が三歳、そして咲子ちゃんは生れてまだやっと一カ月になったばかりでした。

 新京駅までていさんと3人の子供を送ると、夫は後始末をつけなければ、と職場に戻っていきました。こうして3人の子どもを連れたていさんの1年余にわたる満洲から日本への脱出行が始まりました。

 ウクライナではソ連の侵略が始まってから、すでに国外に逃れた難民が530万人もいます。テレビニュースでは乳飲み子を抱えた母親も登場します。ていさんの著書『流れる星は生きている』を読むと、それらの人々の苦難によく共感できます。


■2.「これから最も危険の場所を夜中歩きます」

 1年余の壮絶な脱出行の物語は300頁余りの本で迫真的に語られていますが、そのハイライトの一つ、38度線を越えて、終戦後ソ連に支配された北鮮から、米軍支配の南鮮に入るシーンをご紹介しましょう。38度線の北の新幕から、山や川を越え、30キロ近く歩いて南鮮の開城まで徒歩で行かなければなりませんでした。

 平壌から何時間も立ったまま貨車に揺られ、天井の隙間からの滝のような雨漏りにずぶ濡れになって、新幕に着きました。貨車の扉が開くと、横なぐりに雨が吹き込んで来ました。貨車から下りると外は暗闇で、自分の子供の顔さえ分らない風雨の中です。

「しいッ!」という男の声がどこからか聞こえてきました。
「これから最も危険の場所を夜中歩きます、出来るだけ荷物を軽くして前の人を見失わないように急いで歩くのです。すぐ出発します、すぐ出発しますよ!」
「列から離れた人は置いて行かれますよ、前の人を見失わないように、落伍したらおしまいですよ」

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 私は右手に正彦を抱きかかえ、左手に正広の手を持って、咲子を背にリュックを首にぶら下げて人の群の後を追った。・・・

 私は咲子に乳を飲ませてないことに気がついた。平壌を出てから六、七時間にはなっている。
〈可哀そうな咲子〉でも私にはそんな余裕はなかった。黒い人の群の後をおくれまいおくれまいとついて行った。・・・

 正広は間もなく、めそめそ泣きだした。
「お母ちゃん、歩けない」
 正広のことなんかかまっていられない。
 私は正彦を十歩は抱いて歩き、十歩は手を持って引きずって行った。背中の咲子と頸(くび)に吊った荷物が雨に濡れて重くなって来た。雨は背中までとおり、はいていたズボンがずり落ちそうに重かった。肩に食い込む重みと、頸をもぎ取ろうとするリュックが私の身体を何遍も土にまみれさせた。[藤原、p198]
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■3.「最後の時が来たらこの紐で子供たちを殺し自分も死のう」

 やがて夜が明けて、あたりが明るくなってきました。低い岡の上で、大勢の日本人が休んでいました。リュックを背負ったそのままの姿勢で死んだように眠っている人が多くいます。なんとか、その隅に辿り着きました。

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頸のリュックから大豆を出して正広と正彦に与え私もぼりぼりかじったが、歯にいたく響いて味がなかった。二人の子供は、
「寒い、寒い」
といっていて、大豆を食べる元気さえなかった。私は背中の咲子を下して、乳をふくませたが一滴の乳も出て来なかった。大豆をかみつぶして口移しに咲子の小さい口に入れてやると、
「うう、ああ」
といってそれを吸い取ろうとした。十数時間乳を飲ませないでお腹がすいているのだろう、それにおむつを替えてやっていない。前からこの子は下痢をし続けて熱があった。とてもこの雨の中に生きとおせるとは考えられなかった。・・・

私は咲子を背中に負う時によく顔を見てやった。顔は痩せて小さく、うつろな眼をあけていた。私はリュックの中から赤い紐を出して腰にしっかり結んだ。
 私は最後の時が来たらこの紐で子供たちを殺し自分も死のうと考えていた。[藤原、p203]
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■4.紫色になって、はげしく身震いする正彦君

 切り立った崖を抜けると、一人の女性が狭い道に倒れていました。同じ新京から逃れてきた顔見知りでした。真っ青になって死んでいる幼児を抱いて、泥の中に苦しみもがいて、「う・・・あ・・・、坊やが死んだ!」と絶叫しています。

 ていさんは「死んだ子供なんかどうにもならないじゃないの、あきらめなさい、しっかりしなけりやあなたも死んじまうよ」と言って、「さあ早く子供を埋めて逃げるんだ」と命令するように言いました。

 そしてその女性の手から冷たくなって何時間もたったような赤ん坊を引ったくると道はずれのくぼみに持って行って土をかけてやりました。そしてまだそこにいたがる女の手を引っ張って、「逃げるんだ、逃げるんだ」と前へ進みました。

 小高いところまで来ると、その女性は突然、立ち止まって「やっぱり坊やと一緒に死ぬ、一緒に死ぬう…」と一声残して坂をとび下りてしまいました。

 やがて、3歳の正彦君がはげしく身震いしはじめました。身体は紫色になり、唇は黒ずんでいます。死にかけていました。ていさんは正彦君を横抱きにして、あたりを見回すと、近くの民家に走りました。朝鮮人の老婦人が出てきて、正彦君の顔を見て、「これは大変だ」というような顔をして。沸かしてあった湯をいくらでも使うように手真似で示してくれました。

 ていさんは布きれをお湯でしぼって、正彦君の身体を摩擦しました。足から手、手から足と身体中を摩擦しているうちに心臓の鼓動がぴくりぴくり見えるようになって来ました。
「しめた、助かった!」

 わら小屋で眠っていた正広君の顔も生きた顔ではありませんでしたが、同様の手当で生き返らせました。二人にお湯を飲ませ大豆を食べさせて、藁の中でしばし眠らせました。咲子ちゃんはまだ生きていました。ていさんの背中で体温に護られていたのかも知れません。しかし、一時間もしないうちに、この家の人がいう言葉と顔つきで、立ち去らなければならないことを覚りました。


■5.「パンモグラ(御飯を食べなさい)、パンモグラ」

 やがて一本道に出ると、はるか前方に何か横に長く白いものが見えました。白く横に長い交通遮断棒で道は閉ざされていました。これが三十八度線の木戸であるかとよく見れば、その傍に駐屯所があって、数名のソ連兵が銃を持って出てきます。

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 ソ連兵は早口に何か話しあっていたが、やがて出て来た一人のソ連兵によってがらがらと音を立ててウィンチが巻かれ、遮断棒は静かに頭を持ち上げていった。
〈通れ〉そういう風に顎(あご)で合図している。
 ああ、この時の感激。
 二度と再びないであろう感謝。
 何かいいながら私たちはこの棒の下をくぐった。一人の兵隊が子供たちの頭を一人ずつ撫でてくれた。
 後を振り返るのではない、真直ぐどんどん歩くんだ。私たちは子供を引きずって、やっと屯所の見えない処まで来てほっとした。[藤原、p238]
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 やがて日が暮れて、真っ暗闇の中で白い壁に突き当たった。一軒の農家でした。

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と突然家の中から二、三名の人が出て来て、なにか大きな声でいうと家の中から白米のおにぎりを一杯に盛ったパカチ(瓜の一種で作った容器)を持った女の人が出て来て、私たちの鼻先に突きつけた。
「パンモグラ(御飯を食べなさい)、パンモグラ」
 私たちは手を振って、
「お金がないから買えない」
と答えた。その人たちははげしく頸(くび)を振った。
「そうではない、ただであなた方に差し上げるのだ」
と身振りでいっている。
「パンモグラ、パンモグラ」
 私たちはその言葉に涙を流しながら、幼児の頭ほどあるおにぎりにかぶりついた。私は一年余りの思い出のうちでこの〈パンモグラ〉という言葉ほど温かく心を溶かしたものはなかった。[藤原、p239]
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■6.「開城だ! 開城の灯が見える!」

 ていさんの裸足の足は皮膚が破れ、小石が肉に食い込んで、もう歩けなくなってきました。四つん這いになって、山を登っていきます。山の頂から声が聞こえます。「開城だ! 開城の灯が見える!」「死んじゃ駄目だぞ!ここまで来て死んじゃ駄目だぞ!」

 ていさんも頂上に立って、眼下に見える海のような開城の灯に向って、とめどなく流れる涙を振り払いながら、「開城だあ! 開城だぞう!」と声を振り絞りました。

 そして、まっしぐらにその灯の海に向かっていき、大きな道に出ると、つまづいて、そのまま大地に倒れて、気を失ってしまいました。

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 遠くの方から正広と正彦の私を呼ぶ声が聞こえてくる。
「あ!子供は!」
 私はぱっと眼を開いた。
 正広と正彦が私に取りすがって呼んでいたのだった。子供の間に太い男のズボンが見えている。それを下から見上げていくと、そこには確かにソ連兵ではない外国人がにゅっと突っ立っていた。
「あ!アメリカ人だ!」[藤原、p246]
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 アメリカ軍のトラックに救助されて、運ばれている最中でした。ていさんはトラックの上に両手をついて、何度も何度も頭を下げて泣きました。あたりを見回すと、ていさんたちと同じような女性や子供ばかりが乗っていました。


■7.難民にとって、小さな善意がいかに価値あるものか

 この後、ていさんたちは難民キャンプに入れられて、足の治療を受け、やがて釜山まで貨車で運ばれて、博多港行きの船に乗りました。船の中でも、何人もの子供が力尽きて死んでいきます。

 博多港に着くと、引揚(ひきあげ)援護事務所の人が来て、郷里までの旅費100円と毛布、子供服、下駄、乾パン、それに一人5枚ずつの外食券を支給してくれました。

 そこから一行は、列車で郷里の長野県上諏訪に向かいました。名古屋まで行って、中央線に乗り換えようとすると、引き揚げ者支援の学生たちがいて、その中の医療班が「奥さん、お子さんがお悪いようですね」と注射を打ってくれました。

 塩尻には朝の4時頃着きましたが、まだ暗いプラットフォームに一群の青年男女がいて、荷物をもってくれ、正広君を抱き、正彦君を背負って、乗り換えホームに連れて行ってくれました。塩尻発の列車には席までとってくれています。朝食の用意があるから、必要の人は申し出るようにと言って歩いている若者もいました。郷里の有り難さがしみじみ身に浸みました。

 列車で向かい合わせに座った老婆は、故郷の言葉で声をかけてくれました。

「満州からですか、奥さん、えれえ大変だっつらねえ」「ほんとにねえ、まあまあよく、そんなに、小さい赤ん坊まで連れてねえ」

 老婆はぽろぽろ泣きながら、棚の風呂敷から握り飯を出して、そっくり一包み、ていさんの手に乗せてくれました。

 こうしてていさんは上諏訪の駅で両親と二人の弟、妹に再会できました。妹は「わぁ」とていさんに抱きついて、激しく泣き出しました。両親の声も聞こえましたが、涙で見えません。背中の咲子ちゃんを下ろすと、「この子を早く病院へ」というのがやっとでした。

 こうしてていさんと3人の子供たちは、満洲から1000キロ以上の距離を1年あまりかけて、貨物車と徒歩で逃れてきました。まさに奇跡と言って良い脱出行でしたが、生きて日本まで帰れたのは、ていさんの必死の苦闘とともに、途中で様々な形で助けてくれた人々のお陰でしょう。

 たとえば、本編で登場した3歳の正彦君は、後に数学者としてお茶の水女子大名誉教授となり、名著『国家の品格』はベストセラーとなりました[JOG(430)]。その正彦君が冷たい雨の中を夜通し歩いて凍死寸前になった時、朝鮮の老婦人がお湯を差しだしてくれなかったら、おそらく、この名著も生まれなかった可能性が高かったでしょう。

 難民にとって、周囲の人々の小さな善意がいかに価値あるものか、ていさんの体験記からよく判ります。今や多くのウクライナの難民が、そういう善意を必要としてます。
(文責 伊勢雅臣)

■おたより

■戦わなければ、もっと悲惨な目に遭う(夏目さん)

今回のメルマガを読んで、戦前藤原さん一家のように外地(特に中国、満州、朝鮮、樺太等)に出られてて、戦争に負けた為に日本に帰国するのに筆舌に尽くしがたいご苦労をされた方々が数多いらっしゃいます。

戦後日本国中で戦争の惨禍を2度と繰り返さないために、戦争の悲惨さばかり我々は教えられてきました。そういう私も戦後生まれで父母からは戦争の話しは聞いてましたが、戦争の体験はなく平和な日本で暮らしてきました。

ところが今回のロシアのウクライナ侵攻がきっかけではないですが、以前から果たして戦争の悲惨さばかりを伝えるだけでいいのかと疑問に思ってました。

そして靖国神社へお参りに行った時、遊就館内に展示されてる戦死された方々の遺書や関連する書籍を見るうちに、我々の先人たちは自分の命を賭してまで愛する家族、郷土、日本国を護るために戦たことが分かりました。そして約260万柱の尊い命の上に今の日本があります。国民はそれを忘れていると思います。ただ残念ながらその半数以上の人たちの遺骨は帰国されてません。

ウクライナの人々の意識の中にもそういうものがあり、ロシアも最初は簡単に落とせると思っていたのが戦いあぐねている原因ではないかと思います。

翻って現在の日本はどうでしょうか?

テレビのコメンテ-タ-は「なんでウクライナの人々は戦わないで降伏しないのか。犠牲者ばかり出ているのではないか。」等と言っている人がいます。

でも尖閣諸島が中共に占領されたり、台湾有事があれば当然日本も巻き込まれたりする可能性がある時に「戦争の悲惨さばかり教わり、戦うことを教わってこなかった」日本国民はこのコメンテ-タ-のように白旗を挙げて降参してしまうんではないでしょうか?

そうなると中共の属国になり今我々が享受している「自由、民主主義、法の支配」等は木端微塵に無くなってしまいます。恐ろしいことです。

この機会に先人たちが戦った「大東亜戦争」について検証することを願います。


■伊勢雅臣より

 侵略者に対してすぐに降伏することは、自分たちの命を守るために、子々孫々の幸福を売り飛ばす利己的な行為ですね。

 読者からのご意見をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいは以下のブログのコメント欄に記入ください。
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■リンク■

・JOG(430)「品格ある国家」への道
 日本人が古来からの情緒を取り戻すのは、人類への責務である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog430.html

・JOG(813) 11歳少女の朝鮮半島脱出記 ~ 『竹林はるかに遠く』から
「ソ連兵が上陸してくる」との突然の警告に、11歳の擁子と母、姉3人の満洲国境近くから母国日本への逃避行が始まった。
http://blog.jog-net.jp/201309/article_1.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・藤原てい『流れる星は生きている』★★★、中公文庫、H14
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4122040639/japanontheg01-22/

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