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No.1228 インド独立と日本


 インド独立の起爆剤となったインド国民軍と日本陸軍の戦い。

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■1.インド解放を目指して共に戦った日本陸軍とインド国民軍

 8月15日は終戦記念日ですが、世界史から見て、もう一つ重要な出来事が起こった日です。終戦の2年後、1947年8月15日にインドは独立しました。それは大英帝国が最大の植民地インドを失い、その帝国主義が終わりを遂げた日でもありました。そして、インドの独立には、日本が重大な関与をしたのです。

 大東亜戦争の開戦劈頭、日本陸軍は英領マレー半島を南下して、イギリスの東洋支配の拠点シンガポールを攻略しました。1200キロの距離を72日で快進撃し、兵力3倍の英軍を降伏させたのです。

 最大の成功要因は、藤原岩市少佐率いるF機関が、英軍の中心であるインド兵たちを寝返らせ、味方につけたことです。「インド独立のために共に戦おう」との呼びかけに共鳴したインド人将兵たちが次々と投降しました。

 そこにインド独立革命家チャンドラ・ボースが到着して、日本陸軍のもとで組織されていたインド国民軍の最高司令官となり、また自由インド仮政府を樹立して、その首席となります。

 ボース率いるインド国民軍は、日本陸軍と対等の立場で、ビルマからインドを目指します。1944(昭和19)年1月に始まったインパール作戦です。一度はインドの土を踏んだ日印連合軍10万の将兵は、補給能力の限界から力尽き、3万の屍を遺して、撤退しました。

 1945(昭和20)年8月15日、日本は降伏しますが、ボースは諦めません。戦後はソ連と米英の対立になると読んで、満洲に南下しつつあったソ連軍に身を投じようとします。日本陸軍の軍用機で台北まで飛び、そこから満洲に向かおうと離陸した時に、墜落炎上して、ボースは命を失いました。

 ここまではJOG(508)、JOG(509)で述べました。本号では、その続編として、インド国民軍の決起が、どのようにインドの独立に繋がったのかを見ていきましょう。


■2.「メージャー・フジワラ(藤原少佐)!」

 終戦時に福岡陸軍病院に入院していた藤原岩市中佐(当時)は、占領軍から「インド・デリーで開かれる軍事法廷へ出頭せよ」との命令を受けました。インド国民軍幹部の裁判の証人として召喚する、ということでした。

「これはねがってもないチャンスだ」と藤原は思いました。「一緒に戦ったインド国民軍の将兵たちは、祖国独立のために戦った愛国者であることを、全インドの民衆に訴えよう」と決心したのです。裁判の後で、自分も戦争犯罪人として捕らえられるかもしれないが、それでも自分は行かなければならない、と考えました。

 藤原がデリーについたのは10月18日でした。すでにインド国民軍と関係の深かった片倉少将など数名の日本陸軍幹部が待ち構えていました。

 到着の翌日、弁護団との初顔合わせがありました。弁護団のほかに、インド国民軍参謀長のボンスレー少将以下、懐かしい面々が口々に「ジャ・ヒンド(インド万歳)」「メージャー・フジワラ(藤原少佐)!」と言って、駆け寄ってきました。「ジャ・ヒンド」はインド国民軍のスローガンです。インパール作戦以来、10ヶ月ぶりの再会に、肩を抱き合って喜び合いました。

「裁判はどうなるだろうか?」と藤原中佐が聞くと、デイロン連隊長は胸を叩いて「心配は無用だ。もしわれわれをひとりでも処刑にしたら、イギリス人は生きて本国へ帰ることはできないだろう」と断言しました。イギリスがインド国民軍の将兵を反逆罪で裁こうとしているのに、全インドの民衆が怒って、デモやストライキを行っていたのです。


■3.「日本のおかげでインドの独立は早まった」

 インドの最大政党・国民会議派の長老で首席弁護士に就いたデサイ博士は、胸まで白いあごひげを垂らした堂々たる老人でした。にこやかに藤原と握手をすると、博士はこう言いました。

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 このたびの大戦に日本が敗北したことは残念であり、わたしは深く同情している。日本は建国以考初めて敗戦の苦痛をなめたわけだが、・・・いったんの勝敗ぐらいは決して失望するにあたらない。あなたたちのお国は優秀なのだ。わたしは、きわめて近い将来に、日本はは必ずやアジアの大国としてふたたび復興するであろうと信じている。
 インドもまたきわめて近い将来必ず独立する。そのチャンスをあたえたのは日本である。日本のおかげでインドの独立は早まった。このことはインドだけでなく、ビルマにもインドネシアにも、ベトナムにもいえることだ。日本人は失望落胆することなく堂どうと胸をはっていいのだ。
 さて、このたびの裁判は、不正義の裁判である。それを正義にするためにわれわれはあらゆる努力をかたむけるつもりである。[棟田、p187]
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 博士の力強い励ましの言葉に、藤原は涙を流しました。


■4.「アメリカもイギリスも、この戦争を遂行する道徳的基礎を欠いている」

 インド民衆の英国への怒りは、植民地とされた長い歴史の間に蓄積されていました。形式上は独立したインド帝国でしたが、イギリスの君主がインド皇帝を兼ねており、実質的に植民地支配されていたのです。

 第一次大戦では、イギリスから戦後には自治権を与えると約束され、多くのインド兵が欧州戦線に赴きましたが、実際に与えられた自治権は名ばかりでした。裏切られたインド国内では独立運動が活発となり、後に「インド独立の父」と呼ばれるマハトマ・ガンディーが登場して、一般大衆にまで独立運動を広げたのです。

 第二次大戦が始まると、インドは同意もしていないのにイギリス側の交戦国とされてしまいます。ガンジー率いる国民会議派は、イギリスに対して、対日戦に協力はできない、と声明を出しています。

 米英は、日独伊との戦いはファシズム対民主主義の戦争だと主張しましたが、ガンディーは次のように批判しています。

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 アメリカもイギリスも次のことをしないかぎり、この戦争を遂行する道徳的基礎を欠いている。それはアジアとアフリカから彼らの影響力と権力を撤退させ、人種差別の壁を取り除くという確固とした決断をして自らの家の内部をきちんとしておくことだ。[長崎、p6]
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 アジア・アフリカの多くの地域を植民地とし、非白人に対して人種差別を行っている英米が、「民主主義」国として善玉ぶることは偽善である、という批判です。

 インド人をさらに怒らせたのが、イギリスが1942(昭和17)年に行ったインド東部の焦土作戦でした。日本陸軍がビルマ(現在のミャンマー)までイギリス支配から解放した時に、インドへの侵入を防ごうと行った作戦です。

 日本軍が食糧などを現地調達することから、農業と工業を破壊して、兵糧攻めにしようという冷徹な戦術ではありしたが、あまりにも現地人の生活を無視した作戦でした。

 雨期には水浸しとなって、船がないと生活できない地域では、イギリス軍によって船が没収され、住民は「我々は日本軍の侵入前に殺されなくてはならないのか」と訴えたほどでした。

 こうしたイギリスへの反感から、大衆運動として「クウイット・インディア(インドを立ち去れ)」が始まりました。この頃、ガンディーは日本軍がインドに侵攻してくると考えていたようです。

 マレー半島やビルマでは、日本軍は抗日レジスタンスを行った華僑は弾圧しましたが、インド人には手を触れませんでした。ガンディーは勝利者としてやってくる日本軍とインド国民軍に友好的に振る舞う事で、インドの戦場化を避け、インドが独立して日本と講和を結ぶことを考えていたようです。

 かつてガンディーは一度はボースを国民会議派の議長に任命しましたが、その後、武力での独立を主張するボースは袂(たもと)を分かっていました。しかし、この時期には、ボースとの連携を考えていたのでしょう。[長崎、p251]

 しかし、1942年8月、国民会議派が「インドを立ち去れ」運動を決議した途端、イギリスはガンディーをはじめとする指導者を一網打尽に逮捕してしまいました。指導者のいないまま始まった運動は、インド総督リンリスゴーをして「1857年の大反乱以来、最も深刻な反乱である」と言わしめたほどの規模、期間、激しさでした。


■5.ネルーの裏と表

 後に初代インド首相となるジャワハルラール・ネルーは、ガンディーの弟子ながら、まったくイギリス寄りの考え方をしていました。イギリスの焦土作戦を支持し、抗日ゲリラ戦の呼びかけまで行いました。さすがにこれは国民会議派内部からも抗議の声があがりました。

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 ゲリラ戦などを語ることによって我々は中立の札を捨て、戦争に飛びこんでいくことになるのです。もし我々がガンディーの指導を採用すれば、日本は我々を攻撃さえしないかもしれないと私は思っています。日本の中国に対する戦争を除けば、我々は日本にたいして何の敵愾心も持っていないのですから。[長崎、p157]
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 ネルーはさらに「もし日本がインド人裏切り者の軍隊(JOG注:ボースとインド国民軍)を使っているなら、彼らにたいしても抵抗しなければならない」とまで言っています。[長崎、p165]

 イギリスから見れば、まことに好ましい存在でした。しかし、こういう極端な意見には支持は集まらず、ネルーはガンディーの路線に妥協せざるを得ませんでした。

 戦後、インド国民軍の裁判が始まろうとすると、ネルーは一転して、弁護団にまで加わり、「反乱はインドの義務であり、もし自らを解放するために革命を行なう用意のない民族があるならば、それは死んだ民族である」[稲垣、p238]と述べました。どうもネルーは表と裏を使い分ける、風見鶏のような人物だったのではないか、と思われます。


■6.インド国民軍裁判へのインド民衆の怒り

 裁判では、藤原中佐がインド国民軍創設の事情について陳述し、英印軍捕虜の国民軍参加はあくまで個人の自由意志によるもので、決して強制されたのではないことを強調しました。

 また片倉少将は、インド国民軍はインパール作戦の際に、日本軍の組織内に繰り入れられたのではなく、独立した軍隊として別個の正面を担当し、全く対等独立の存在であったことを述べました。

 こうした証言は、インド全土のマスコミに報道され、ボースとインド国民軍が日本軍の傀儡ではなく、インド独立のために戦った愛国者であったことを国民に印象づけました。インド民衆の裁判に対する抗議行動はさらに過激化しました。

 首都デリーはデモの波で覆い尽くされ、押し寄せる何万もの群衆の叫びが裁判所内部まで聞こえてきました。カルカッタ、ボンベイ、カラチなどの主要都市は騒乱状態になりました。とどめとなったのは、全インド海軍のインド人水兵がイギリスに反旗を翻したことでした。水兵たちは「インド国民軍海軍」と名乗って、ほとんどの艦艇と海軍施設を乗っ取り、英国旗を引きずり降ろしました。

 イギリスがインド支配を続けようとすれば、大規模な本国軍と官僚群を送り込み、民生安定のための莫大な経済援助もする必要がありました。第二次大戦で疲弊したイギリスには、その力は残っていません。アトリー英首相は、インドに自治権を与え、将来の憲法制定も、英連邦に留まるかどうかの選択も、インド国民の自由意志に任せるとの声明を発表しました。


■7.ボースが復活する日

 こうしてインドは独立を達成し、ネルーが初代の首相となりました。『革命家チャンドラ・ボース』の著者・稲垣武氏は次のように述べています。

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ネルーら会議派主流は大戦直後の四五~四六年の独立運動高揚期にはボースと国民軍の業績を評価し、それへの民衆の感動を運動のテコに利用したが、独立達成後はなるべく無視しようとした。[稲垣、p249]
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 ボースは、事故死の後、東京・杉並の蓮光寺に埋葬されました。インド政府が連合国への聞こえを慮(おもんばか)ってか、遺骨の引き取りをためらったのです。

 ネルー首相は1957(昭和32)年10月に来日した際、蓮光寺を訪れ、ボースの冥福を祈りました。「この遺骨はインド国家のものであり、いずれは引き取らねばならないが、それまではよろしくお願いする」と言い残して辞去しました。

 日本ではボースにゆかりのあった人達が、8月18日の命日に毎年、盛大な慰霊祭を催すようになりました。これらの人々は何度か正式な外交ルートでインド政府に遺骨引き取りを打診しましたが、反応はありませんでした。

 ボースの遺骨が母国に帰れなかったのは、当時の国民会議派としてボースとインド国民軍が独立の原動力として脚光を浴びては面白くないこと。さらにボースはまだどこかで生きている、という伝説が民衆の間で広く信じられていたからでしょう。

 それでも、ボースはインド人の歴史観の中で蘇りつつあるようです。インドの国会議事堂の中央大ホールにはガンディー、ネルーらの肖像画のみが掲げられていましたが、1978年にはボースの肖像画もそれらに並びました。デリーの、かつてはイギリス国王でインド皇帝だったジョージ5世の銅像があった跡には、インド国民軍を率いるボースの銅像が建っています。

ボース.PNG


 ボースとインド国民軍がインド建国の物語で正当な地位を得たときには、多くの犠牲を払いながらも共に戦った日本の貢献も再確認されていくでしょう。それは日本とインドの新たな絆になるはずです。そして、その時にこそインパール作戦に斃れた日本陸軍の英霊たちも報われるのです。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

・JOG(002) 国際社会で真の友人を得るには
 インド独立のために日本人が血を流した
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog002.htm

・JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)~ シンガポールへ
 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog508.html

・JOG(509) インド独立に賭けた男たち(下)~ デリーへ
 チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog509.html

・JOG(338) 大東亜会議 ~ 独立志士たちの宴
 昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初めて一堂に会した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog338.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・アレクサンダー・ヴェルト『インド独立にかけたチャンドラ・ボースの生涯』★★、S46
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9GQZK/japanontheg01-22/

・稲垣武『革命家チャンドラ・ボース』★★★、光人社NF文庫、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4769827989/japanontheg01-22/

・長崎暢子『インド独立―逆光の中のチャンドラ・ボース』★★、朝日新聞社、H01
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4022560487/japanontheg01-22/

・丸山静雄『インド国民軍―もう一つの太平洋戦争』★★★、岩波新書、S60
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4004203155/japanontheg01-22/

・棟田博『革命児チャンドラ・ボース』★★、国土社、S51

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