サイト内全文検索

No.1213 国民統合が国家のエネルギーを生み出す



 国内の一致団結で勝った元寇、豪族がバラバラに戦って負けた白村江。

■転送歓迎■ R03.04.25 ■ 40,121 Copies ■ 7,420,834Views■
無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/


__________
■伊勢雅臣『この国の希望のかたち 新日本文明の可能性』、グッドブックス、R03
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4907461283/japanontheg01-22/

 発売直後に売り切れでご迷惑をおかけしましたが、在庫が揃った4月19日から約1週間、カテゴリー「日本論」で1位を継続できました。皆様のご支援、ご声援に感謝いたします。
 読まれた方は、ぜひカスタマー・レビュー投稿をお願い申し上げます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■1.元寇勝利の主要因は国内の一致団結

 先週18日に行った国際派日本人養成講座Live「皇室が紡いだ救国の歴史」第3講「古代・中世の祈り」では、国の盛衰を決める最重要要因とも言うべき国民統合の力を、元寇と白村江の戦いを通じてまざまざと見ることができました。

 元寇は1274年の文永の役、1281年の弘安の役と2度も、当時の世界帝国モンゴルが高麗の兵船とともに侵攻してきたものです。ここで日本は運よく台風に救われたと言う「神話」が広く信じられていますが、これは一種の自虐史観です。

 文永の役では元軍は優勢に戦いを始めましたが、一晩で撤退をしてしまいました。その理由を、元軍の総司令官は「疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべき」と語っています。戦闘意欲満々の武士たちが各地から続々と集まる勢いに恐れをなしたようです。

 弘安の役では高麗と新たに降伏させた南宋の兵船も含めて50数万人、4400艘という、当時の世界最大の水軍で押し寄せました。ところが日本側は博多湾沿岸に長大な石塁を築き、また隙を衝いて小船で逆襲するなどして2ヶ月近くも上陸を阻みました。2ヶ月ほども海上をさまよっていれば、台風に襲われることも当然でしょう。日本の防衛成功は、日本側の守りの堅さが主要因でした。

 しかし仮定の話ですが、日本側に裏切り者が出て、「北九州は守りが堅いから、守りの薄い山陰の海岸に回ったほうが良い。そこから一気に京都を目指せる」などと道案内をしたらどうだったでしょうか。そうなれば元軍が日本の中央を押さえていた可能性が大です。国内が見事に一致団結し、そんな裏切り者が全く出なかったことも、勝利の一因でした。


■2.内紛や裏切りのオンパレードだった高麗

 日本の一致団結ぶりは、その前に蒙古に侵略された高麗と比べると、一層、鮮やかです。

 例えば洪福源(こうふくげん)は、蒙古が高麗に侵入を始めた時に国境を守っていた武将でしたが、ひとたび降伏すると、今度は自ら蒙古軍の先鋒となって、母国への侵略に加担しました。崔坦(さいたん)という人物は、高麗北部の首長を殺し、60城を蒙古に寄進し、その領主に収まった、という天才的な陰謀を成功させました。

 高麗王高宗は、1257年、蒙古侵攻26年目に、王宮内での激論の末、降伏を決意します。しかし王の私兵組織、三別抄(さんべつしょう)は降伏に反対して、江華島などに立てこもり、自らの王を立てて独立を画策します。これを鎮圧するという建前で、蒙古は大軍を送り込み、その糧食を供給するために高麗人民は塗炭の苦しみを受けました。この三別抄の乱が、1273年まで16年も続きます。

 裏切り者の極めつけは趙彝(ちょうい)です。元皇帝に日本へ使者を送ることを進言します。使者を送ると言っても、日本が戦わずに服属するはずもなく、戦いが始まれば高麗は船を作らされ、兵隊の動員を命ぜられます。趙彝の進言が高麗王宮に伝わった時、「呪詛と怒りの言葉が発せられた」と伝えられています。

 これだけ裏切りや内部分裂があっても、高麗は42年間も抵抗を続けたのですから、国王のもとでこれらの知恵者たちが結束して元と戦っていたら、侵略を撃退できた可能性も十分あります。


■3.白村江でも「団結は勝利、分裂は負け」

「団結は勝利、分裂は負け」という法則は、白村江の戦いでも見られました。ただし、この時に団結して勝ったのは唐・新羅連合軍であり、分裂して負けたのは百済・日本軍でした。

 660年、唐と新羅の大軍に襲われて百済が滅びます。遺臣・鬼室福信が日本にやってきて、日本国内で人質になっていた百済の王子・豊璋を擁して再興したいと、支援を要請しました。

__________
 朝廷では第一に.三百年のよしみのある百済が滅びるのを傍観していては道義心がゆるさないこと、第二には、百済が唐に侵されてしまうことは、日本への直接の脅威となることを理由に、朝議一決した。(坂本)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この決断にしたがって、豊璋は旧百済領に護送され、王に即位しますが、福信の裏切りを疑って、殺してしまいます。百済を再興しようとしている矢先に仲間割れしている場合ではないだろう、と思うのですが、その程度の人物だったのでしょう。

 それに対して、中央集権国家・唐の軍隊は司令官の下で見事に統一された、戦略的な動きをとります。山場となった663年8月の白村江(はくそんこう)の戦いを、日本書紀は次のように記しています。

__________
 二十七日に日本の先着の水軍と、大唐の水軍が合戦した。日本軍は負けて退いた。
 大唐軍は陣を堅めて守った。二十八日、日本の諸将と百済の王とは、そのときの戦況などをよく見極めないで、共に語って「われらが先を争って攻めれば、敵はおのずから退くだろう」といった。さらに日本軍で隊伍の乱れた中軍の兵を率い、進んで大唐軍の堅陣の軍を攻めた。
 すると大唐軍は左右から船をはさんで攻撃した。たちまちに日本軍は破れた。[宇治谷]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 日本の軍船千隻中、4百余隻が炎上し、空と海を炎で真っ赤に染めた、と記されています。先着の軍が負けているのに、続く中軍は情勢分析もせずに敵に向かっていったのです。「団結は勝利、分裂は負け」の法則通り、日本は元寇では団結して勝利し、白村江ではバラバラに戦って負けました。

 しかしその後、日本側はこの豪族連合国家の弱点を反省し、天智天皇、天武天皇のリーダーシップのもとで、より統合された公民国家の建設に邁進します。これが奈良時代、平安時代を通じた繁栄の基礎となりました。


■4.国内の団結はいかに生まれたのか

「団結は勝利、分裂は負け」の合理性は、次のように簡単な算数で示すことができます。100の国力を持つ大国が、50の力しか持たない小国と戦ったとします。この国力の差では、当然大国が勝ちますが、大国のうち、30の勢力が分裂したらどうでしょう。大国の国力は70-30で、40となってしまいます。これでは国力50の小国でも、一致団結すれば勝ちを収めることができます。

 こんなことは当たり前のことで、問題はどのように国内の団結を作り出すか、です。その過程を元寇のケースで見てみましょう。

 蒙古から最初の国書が来たときに、18歳で幕府執権になったばかりの北条時宗は、「大蒙古国皇帝奉書(書を奉る)」と自国を上段に構え、その下に小さく「日本国王」とある国書に、「これは無礼な」と怒りました。国家への無礼を我が事のように怒る無私の心情の持ち主だったのです。

 外交は朝廷の権限でしたが、こちらもわずか23歳の関白・近衛基平は、「回答せず」との決断を下しました。朝廷内には南宋貿易で莫大な利益を上げていた貴族もいて、「形式だけなら属国となっても、巧みに交易して利益を上げればよい」という意見で周囲を買収していました。基平は、そういう意見を抑えて、朝議一決に漕ぎ着けたのです。

 いくら関白といえども、23歳の基平が朝議一決に持ち込めたのは、亀山上皇の国を守り民を護ろうとする強い御祈りがあったからでしょう。上皇は弘安の役では京都の石清水八幡宮で徹夜の戦勝祈願をされ、また御身を以って国難に代わろう、との御宸筆の願文を伊勢の神宮に奉納されました。

 一命を捧げても、という真摯な御祈りの前で、「形式だけなら属国となっても」などという意見が通るはずもありません。朝廷と幕府が一致団結して、元と戦うという意思決定ができた背景には、この亀山上皇の御祈りがあったと思われます。


■5.「一所懸命」が国を護る

 実際に戦った武士たちはどうでしょうか。肥後(熊本)の御家人・竹崎季長(すえなが)の物語が伝わっています。

 季長は「一所の荒郷(土地の痩せた所)」武士で、この戦いで目立った働きをすれば、たとえ自分は戦死しても、恩賞として妻子、子孫に所領が貰える、と兄弟郎党で駆けつけました。目立つように兜の後に赤い布を着け、「先駆けの功名」を狙ってわずか5騎で移動中の元の大軍に斬り込みます。

 敵を次々と斬り倒しますが、元軍も季長一党を取り囲んで矢を射かけてきました。季長は腕や肩に矢を浴び、馬から転げ落ちて、あわやというところを、後続する武士たちが「それ、者ども、味方討たすな」と駆けつけて危うい所で救い出されました。

 季長の物語には後日談があります。戦いの後、どういうわけか、幕府の恩賞から漏れていたことに怒った季長は、はるばる鎌倉まで行き、幕府に直訴します。時宗は、このような「一所懸命の武士」こそ頼りになると、再度の調べを命じ、その結果、肥後国海東郷を与えました。

 子孫のために「一所に命を懸ける」というのは利己心でしょうか。「子孫のために」は普通の人間でも抱きやすい利他心ですが、それは「子孫が暮らす将来の国のために」に自然につながっていくのです。封建制が確立されていた欧州と日本で、真っ先に近代的国民国家が成立したのは、この「一所懸命」の精神があったからでしょう。

竹崎季長.jfif


 受講された方からはこんな感想を頂きました。

__________
大変興味深い内容でした。モンゴル人と日本人の行動の違いは、思想(一所を守る)の違いなんだと。
味方を裏切っても、メリットはないだろうと思っていたのですが、相手に裏切った方が得、と思わせる待遇を提供する、まさにハニートラップ、マネートラップですね。それに対抗するにはみんなが一所を守る、そんな事が、これからの日本人に必須なことがわかりました。(郁子さん)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__________
本当にわが国は、先人に恵まれていたんだな、と痛感しました。これからは私も子や孫の代に少しでもいいものを残していけるよう微力ながらがんばっていきたいと思います。(義経さん)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■6.大和の国を大きくした平和的統合

 国内の団結とは、現代風に言えば「国民統合」です。そもそも我が国は国民がひとつの家族のように仲良く暮らすことを理想として建国されました。初代・神武天皇は「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と言われて、即位されたのです。これが日本の建国宣言でした。

 建国といっても、この当時はまだ南九州から日本の中心である大和地方に進出したばかりの一地方国家に過ぎませんでした。そこから徐々に国家を広げていくのですが、その手法は各地の豪族と婚姻を通じて、結んでいくというやり方でした。「大家族のように」とは比喩ではなく、実際に大家族国家を作っていたのです。

 神武天皇の大妃(おおきさき)は、大和の地の有力氏族・三輪氏の御祭神、大神(おおみわ)神社に祀られる大物主神(オオモノヌシノカミ)の娘、伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)でした。この結婚によって、神武天皇は地元の有力氏族を身内に引き入れたのです。

 その後、第2代から第4代までの天皇は、奈良盆地の南部から正妃を迎えていますが、第5代孝昭天皇は尾張から、第8代孝元天皇は河内出身と考えられる姫を妃としています。第9代開花天皇は日本海側の京丹後市のあたりから、第10代崇神天皇は近江、山背、丹波、紀国(和歌山県)から妃を迎えています。

 この間、大きな戦争の痕跡もなく、皇室が婚姻を通じて平和的に各地の豪族と結びついて、国を大きくしていった様子が窺われるのです。


■7.「和の国」の強みをどう発揮するのか

 同時に各豪族の先祖を皇室に関係づけることも、国家統合のもう一つの手段とされたようです。天武天皇は「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出され、これが古事記、日本書記として、結実しました。そこには多くの部族の祖先の神々と皇室との関係が語られています。

 たとえば、前述の大物主神は日本書紀の一説によれば、国作りを行って出雲大社に祀られている大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名であり、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の子孫です。この須佐之男命は、皇室の祖先である天照大神の弟神なのです。

 とすれば、三輪氏は婚姻によって結ばれただけでなく、その先祖の神々も姻戚関係にあった、ということになります。こうして我が国は「和の国」を目指して建国された後も、諸豪族の先祖は共通の神話によって関係づけられ、婚姻によって子孫を共有するという平和的な手段によって、結びつきを強め、平和的に発展してきました。いかにも「和の国」らしい国民統合の足跡です。

 こうして長い歴史を通じて強固に結ばれた国家ですから、当然、対外的危機に対しても一致結束して乗り越えようとします。これが和の国の根っこから出てくる力であり、この力によって我が国は世界でも自由独立国家として最古最長の歴史を紡いできました。中国の覇権主義という現在の国難を乗り越えるにも、この国民統合の力をいかに発揮するかということが鍵となります。

 この点は、次のような受講者からの感想にも窺えます。
_________
国難を乗り越えて、日本が世界最古の王朝を現在まで続けていられるのは「君民一体」思想のお陰で、日本には「国を売る人間」がいなかった、という点に深く共感しました。しかし、今は中国が大好きな政治家や経営者がいて、とても困った状態になって来ています。
(賢弘さん)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__________
国を守る、と言うことの本質が少なからず分かったような気がしました。やはり、一致団結、挙国一致が最も大切だと言うことですね。
古代より続く我が国の御皇室を中心とした挙国一致の体制こそが、再来年頃から我が国にやって来るであろう北京政府と対抗するには、この挙国一致が最も必要です。(天下の無法松さん)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

・JOG(1201) 元寇に見る日本の結束、朝鮮の内紛
 なぜ日本は朝鮮のような裏切りも内部分裂もなく、挙国一致の体制を20年以上も保持できたのでしょうか?
http://blog.jog-net.jp/202101/article_4.html

・JOG(808) 歴史教科書読み比べ(10) ~ 白村江の戦い
 老女帝から防人まで、祖国防衛に尽くした先人の思い。
http://blog.jog-net.jp/201307/article_7.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳』★★、講談社学術文庫、S61
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4061588338/japanontheg01-22/

・坂本太郎『日本の歴史文庫2 国家の誕生』★★★、講談社、S50


■おたより

■ブータン人の覚悟を見て、撤退したインド軍(英文さん)

 ブータンの若者から聞いたブータンの現代史で、かつてインドとの紛争が発生しブータン人の村落が占領され住民が拘束された時に、先代のブータン国王は自らインドから見たら芥子粒くらいの規模の軍を率いて、インド国境に向かいました。まともに衝突すれば国王の戦死か捕虜は避けられませんでした。軍事大国のインド軍はやすやすとブータン軍を粉砕して口実にブータンを電撃戦で占領できたでしょう。

 しかしインドは国王とブータン人の覚悟の前に手を引き部落から撤退しました。ブータンの男性全てが国王と共に倒れても良いと武器を持てる男性は次々と国王と軍(常備軍はほとんどないそうで、出動したのは予備役のかき集めです。)に参じたそうです。私はこの話を彼から聞いて感動しました。

 ブータン人の言う幸せは「私の幸せ」ではありません。「他人・隣人に幸せ」です。幸福庁はそれを今もブータンで国民と共に推進しつづけています。もちろんブータン人にも犯罪者、悪人はいることは人間社会としてあることであり理想郷は地球にはありません。
しかし理想郷を目指していくことは人類共通の叡智で目的でしょう。


■伊勢雅臣より

 ブータン国王の覚悟と、国民の幸せを願う政策は、根っこのところでつながっているように思えます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント