「細井平洲の目指したもの」立松彰、『致知』H30.7
・平洲が20歳で、長崎に遊学した際、母が重篤の報が来て、郷里・尾張に帰ろうとした際、長崎の医師が病気だった平洲を気遣って、はるばる尾張まで送り届けてくれた。また、帰郷の後、重病に陥った平洲が、長崎時代の友人に助けを求める手紙を送ったところ、大金を入れた箱が届いた。箱には「石」と書かれていて、返却しないで良いという心遣いだった。平洲がいかに長崎の人々に愛され、尊敬されていたかを示すエピソード。同時に当時の人々の人情の厚さも窺われる。
・平洲は後に江戸に出て、自ら塾を開いた。大学者を輩出する一方、庶民の教育にも力を入れた。儒教の教えで、一人でも多くの人の心を豊かにしたいと、両国橋の袂で辻講も行った。
・米沢に招かれ、名君上杉鷹山を育てた後、生まれ故郷に恩返しをしたいと尾張藩藩校の校長になる。そこでは武士だけでなく、農民も教育した。また、藩校に足を運べない人のために、藩内の各地域に足を運び、寺院などに人々を集めて講義をした。江戸期の庶民は学問への志も高かった。
■リンク
a. JOG(144) 細井平洲~「人づくり」と「国づくり」
ケネディ大統領が絶賛した上杉鷹山の「国づくり」は、細井平洲の「人づくり」の学問が生みだした
「明日への選択」日本政策研究センター
・平洲は後に江戸に出て、自ら塾を開いた。大学者を輩出する一方、庶民の教育にも力を入れた。儒教の教えで、一人でも多くの人の心を豊かにしたいと、両国橋の袂で辻講も行った。
・米沢に招かれ、名君上杉鷹山を育てた後、生まれ故郷に恩返しをしたいと尾張藩藩校の校長になる。そこでは武士だけでなく、農民も教育した。また、藩校に足を運べない人のために、藩内の各地域に足を運び、寺院などに人々を集めて講義をした。江戸期の庶民は学問への志も高かった。
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