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zoom RSS No.1081 ハル・ライシャワー 〜 平和の海を求めて

<<   作成日時 : 2018/09/23 06:39   >>

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 日米間の理解を深め、太平洋を平和の海にするために捧げた一生。

■転送歓迎■ H30.09.23 ■ 50,530 Copies ■ 4,524,579Views■


■1.「お墓は太平洋」

 昭和36(1961)年から5年間、駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワー博士が、人生最後の2ヶ月間を過ごしたのが、南カリフォルニアの高級リゾート地ラホーヤで、眼下に太平洋を望む別荘だった。ハル夫人はこう回顧する。

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 もう長くないことはお互いに分かっていましたから、私は主人にあなたが亡くなったら、ここを引き払って、小さい家に移るつもりだと話したことがあります。そのときに主人が、それはいけないときっぱり申しました。日本文化を取り入れた心地よい場所に仕立てて暮らしてほしいというのです。
 坪庭に竹の葉がさらさらと揺れて、雪見障子越しに緋鯉(ひごい)の泳ぐ池が見えるようにしたのは、私が一人になってからなんですよ。[1,p23]
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「太平洋を望める」というのが、博士がこの地を選んだ理由だった。そこに「日本文化を取り入れた心地よい場所を」と望んだのは、故郷を懐かしむハル夫人への思いやりだったろう。

 博士は遺言状に「葬儀 追悼式 一切不要の事」と書いた。火葬の後の遺骨は、飛行機で太平洋上に撒かれた。「お墓は太平洋」とハル夫人は淡々と語った。


■2.「しょせん、ここは自分の国ではない」

 松方ハルは、大正4(1915)年、元老・松方正義の孫として生まれた。母方の祖父・新井領一郎は、明治初年にニューヨークに渡って貿易商として財をなし、ハルの母親もアメリカで教育を受けた。そのために、日本で生まれたハルもアメリカ人とイギリス人の家庭教師をつけられ、いたずらをするとお尻を叩かれるような厳格な教育を受けた。

 ハルはアメリカン・スクールの高校課程を終えた後、イリノイ州のプリンシピア大学に留学した。日本語よりも英語の方が得意という奇妙な日本人留学生だった。大学では東洋史を勉強し、「以後、欧米の列強の植民地政策や、アジアに対する侵略に関心を抱くようになったのです」[1, p104]と語っている。

 昭和12(1937)年、ハルは卒業と共に帰国した。買い物に行くたびに「チャイニーズ・プリンセス」などと呼ばれることに複雑な思いをしており、しょせん、ここは自分の国ではない、と思い知らされていた。

 しかし、母国にもハルの居場所はなかった。すでに結婚適齢期を迎えていたが、4年間留学して、国際問題に関心を持つハルに釣り合う男性が見つかる時代ではなかった。

 悶々とする日々を送る中で、松方家の書棚に祖父の伝記『公爵松方正義伝』全2巻を見つけた。ハルは憑かれたように、その本を読み耽(ふけ)った。祖父が二十数年も前に日本の対中政策を批判している事を知った。大陸では支那事変が拡大しつつあり、事態は祖父が危惧していた通りに推移していた。

 自分はこういう人の孫だという誇りを抱いたハルは、書斎に閉じこもって祖父の伝記を英訳し、それを母校プリンシピア大学の歴史学教授に送って、保管を依頼した。


■3.「あなたの力をお借りできないか」

 やがて日米開戦となり、松方家は6人の子供のうち、ハル以外の5人がアメリカにいて、気を揉む日々が続いた。やがて松方家は鎌倉の別荘に移った。海を見ながら、子供たちの無事を祈れるからであろう。

 そして敗戦。二人のアメリカ人将校がやってきて、「自分は戦争犯罪人の摘発という役目を負っているが、バイリンガルの人材に乏しく、仕事が一向にはかどらない。ついては、あなたの力をお借りできないか」と聞いてきた。

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 私は即座にお断りしました。なぜなら、私の知人縁者には、戦犯容疑をかけられそうな人がたくさんいたからです。そういう方々と、アメリカ側の間に立つ仕事はとても引き受けられないと思ったのです。[1, p132]
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「戦犯捜査の通訳がいやなら、新聞記者の助手はどうか」との申し出に、これはアメリカのジャーナリズムを通して日本人の真意を伝える役どころだと直感して、ハルは迷うことなく引き受けた。

 いとこの松方三郎・共同通信社編集局局長が「憲法作成の経緯からして、紛れもなくアメリカ製ではないか。いかに占領下とはいえ、憲法までマッカーサーからいただかねばならぬ理由はない」という異議を唱えた時も、ハルはこれを英文のメモにして、アメリカ人の上司に届けた。彼は深く頷いてメモを受けとったという。

 やがてハルは高級誌「サタデー・イブニング・ポスト」の事務職員に転職した。事務だけでなく、自ら記事を書いて投稿した。同誌は毎回100編を超える持ち込み原稿のうち、選りすぐった少数だけを掲載するが、ハルの書いた6本の原稿はすべて採用された。

 そのうちの1本は「翼を亡くしたパイロット」という題で、日本のパイロットたちが、マッカーサーに宛てて、戦いが終わった以上、自家用機の操縦を認めて欲しいと訴えている様を取材したものだった。アメリカの高級誌に立て続けに記事を掲載されたハルは、実力を認められて、昭和29(1954)年には外人記者クラブで初の日本女性役員に選ばれた。


■4.「結婚しないのなら、もう二度とあなたと会いたくありません」

 昭和30(1955)のある日、ハルは外人記者クラブで友達からライシャワー博士を紹介された。「あなたのことはよく存じ上げています」とハルは苦笑しながら言った。ハルがアメリカン・スクールの小学5年生の時、ライシャワー博士は高等部の花形バスケット選手だったのだ。

 この時、博士が45歳、ハルは40歳。その前年に博士は妻を亡くし、気分転換もかねて3人の子供と一緒に研究のために来日したのだった。半年の間に何度か会った後、博士はハルにプロポーズした。まず「確かめて置きたいが、あなたはまだ結婚を諦(あきら)めたわけではないでしょう」と遠回しに聞いた。

 ハルも「結婚するんだったら彼しかいない」と考えていた。そこで少しこわい顔をして「結婚しないのなら、もう二度とあなたと会いたくありません」と言い切った。

 戦前、博士の両親が東京に住んでいた頃からハウスキーパーをしていた桑原モトさんに、博士はハルを見て貰ったが、どことなく博士の母親に似ている、と思ったモトさんは「あのお方なら大丈夫、私が太鼓判を押します」と答えた。アメリカ東部の謹厳な気風を持った母親と、武家に生まれたハルには相通ずるところがあったのだろう。

 この頃、博士の母親はボストンで病床にあり、ハルが渡米した時にはすでに亡くなっていた。しかし、博士の父親は、ハルと気心があった。これもハルが母親に似ていたからだろう。


■5.「いやです。絶対に」

 翌昭和31(1956)年に、博士はハルを連れて3人の子供と共にアメリカに帰り、ハーバード大学に戻った。3年後にはハルは米国籍を取得した。

 1961(昭和36)年1月末、博士は発足したばかりのケネディ新政権から、駐日大使に、との要請を受けた。ハルに相談すると、「いやです。絶対に。お受けになるなら単身赴任でいらっしゃって下さい。私はボストンでしっかり家族の面倒を見ておりますから」と撥ね付けた。

 そもそも大使の妻が外国出身の場合、その母国には赴任しないことが慣例となっていた。まして、日本では前年に60年安保騒動が起こっており、アイゼンハワー大統領が来日直前で訪日をキャンセルする、という事態まで生じていた。

 そういう中で、日本を良く知る博士と、日本人妻のハルを大使夫妻として送り込もうというのは名案であった。しかし、ハルは、アメリカ大使の妻として自分が行けば、好意的な迎え方をする人ばかりではない、と思ったのである。

 ただ博士としては、今までの日本研究の成果を生かす千載一遇のチャンスである。ハルは3日間、苦慮した後に、ようやく折れた。「国家が諸君のために何をしてくれるかというより、諸君が国家のために何ができるかを考えよ」と説いたケネディ大統領の就任演説で決意を固めたのだった。いかにも武家の娘らしい決断であった。


■6.「手おくれのぶんまで取り戻すつもりで」

 日本語が流暢の博士と日本人妻という新任大使夫妻は、日本側から予想外の好感を持って迎えられた。宮中での天皇誕生日のレセプションでは、昭和天皇は二人の顔をご覧になってホッとした表情をされた。日本に精しい博士と、明治の元勲の血を引いて皇室に縁のある親類縁者を持つハルに、天皇は気を許された。

 日本国民も大使夫妻を歓迎した。博士は来日早々から各地への視察旅行をこころがけたが、当初は単身での視察で、行く先々で「なぜハル夫人と一緒に来なかったのか」となじるように問いただされ、途中からは一緒の視察に切り替えた。任期中の視察は39都道府県に及んだ。

 大使夫人として取り組んだ課題に、日本での女性リーダーの育成がある。手始めに昭和38(1963)年、衆参両院の各党を代表する女性議員5人が渡米した。2ヶ月間、交通費、宿泊費、日当をアメリカ政府が支給して、自由にアメリカを視察する機会が与えられた。一般人には渡米など考えられなかった時代に、各界の女性リーダーを育てようというプログラムである。

 また、ある時は、ハルは数千人の女性を前にした講演で、次のように語った。

__________
 私は日中戦争の直前までアメリカの大学で学んでいましたが、日本とアメリカが太平洋戦争に突入した一つの理由は日米間の理解と認識の不足だったと思います。
 プリンシピア大学4年のとき、私はすでに両国の理解を深めるのを生涯の仕事にしようと決めていましたが、不幸にも手おくれで戦争がおきてしまいました。いま、あの手おくれのぶんまで取り戻すつもりで、私なりの役目をはたしている毎日です。[1, p246]
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■7.「いま辞任すれば、日本人が責任を感じるだろう」

 しかし、大使時代後半には二つの大きな事件が続いて、二人の活動が阻害された。第一に、1963(昭和38)年のケネディ暗殺。自分を見込んで任命してくれた大統領が倒れ、後任のジョンソン政権は博士に言わせれば、「野蛮で国際性に欠ける」ので、ケネディなきあと、これ以上、東京で働く義務はない、としきりに主張した。

 それから4ヶ月後、博士自身が精神異常の19歳の男性にナイフで刺され、右股に50センチもの傷を負うという事件が起きた。犯人はその場で取り押さえられたが、博士は血まみれのまま、近くの虎の門病院に運び込まれた。大量の輸血を受けて一命はとりとめたが、これが原因となって、その後、肝炎に悩まされるようになる。この頃の状況について、ハル夫人はこう語っている。

__________
 ケネディ大統領の暗殺に落胆して一旦は帰国を考えた私たちでしたが、逆に容態が悪化した時点で主人も私も絶対に辞任すべきではないと考えるようになりました。いま辞任すれば、日本人が責任を感じるだろうと思ったからです。せめてあと一年は東京にいなければと、私たちはいつしかお互いに励まし合うようにさえなっていました。[1, p241]
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■8.「一つ窓思いて止(や)まず」

 昭和41(1966)年7月、後任も決まって、博士は記者会見で、離日を伝える日本語のステートメントを読み上げた。締めくくりに日本とアメリカの間の理解と協力より大切なものはないとし、自分は日本は離れるが、心はこの国に残していくとまで言い切った。

 それから連日のように盛大な送別会が催されたが、いまもハル夫人の胸に焼き付いているのが、皇居にお別れに行った時、昭和天皇が冗談まじりに漏らされた次の一言だという。

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 ライシャワーさん。駐日アメリカ大使として政治的な仲介役は立派に果たされたのですから、これからはどうか日本からアメリカへの文化大使になってください。[1, p255]
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 日米双方の理解が大切という認識は、昭和天皇もお持ちだった。

 アメリカに戻って20年目の1986年から翌年にかけて、二つの慶事が続いた。一つは、父方の祖父で武家出身の松方正義公爵と、母方の祖父でアメリカで絹を商って成功した新井領一郎を軸として一族の歴史を追った『絹と武士』がハーバード大学から出版され、日本でもその翻訳が話題となったこと。夫の看病をしながら10年かがりでまとめた労作であった。

 もう一つは翌年の10月、皇太子夫妻をボストンの自宅にお泊めしたこと。ハル夫人の心のこもったおもてなしにより、両殿下ともくつろいだ二泊三日を過ごされた。

 この日からわずか3年後に、ライシャワー博士は世を去った。博士の訃報が届いた日に、妃殿下は4首の御歌を贈られた。その中にラホーヤの別荘から太平洋を眺めていた博士の姿を思われた次の一首がある。

 一つ窓思いて止(や)まず病(や)みし君の太平洋を望みましとふ

 その「一つ窓」から見える太平洋の先には日本がある。海は人を結び、相互理解をもたらす平和の海となるが、相互理解が足りないと戦いの海にもなる。ライシャワー博士とハル夫人は、平和の海を求めて、その一生を捧げたのであった。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594075681/japanonthegl0-22/
アマゾン「日本史一般」カテゴリー1位 総合61位(H28/9/13調べ)

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■『世界が称賛する 国際派日本人』に寄せられたカスタマー・レビュー 62件、5つ星のうち4.9

★★★★★ 明治〜昭和〜平成にかけて、顕彰されるべき近現代の日本人を集めた良書(奉孝さん)

自虐史観、祖国蔑視のサヨク的教育の影響から脱し、日本を再発見・再評価することがテーマの本は近年、数多くあれど、本書は『人物』に焦点を当てている点、またそれが現代の日本人にまで及んでいる点で他と一線を画している。
いくつか例を紹介すると、

・皇太子殿下…世界の水問題に取り組む人々の連帯の「象徴」
・大村 智…4千万人を感染症から救ったノーベル賞科学者の志
・近藤 亨…70歳の誕生日にネパールへ旅立った現代の二宮尊徳
・今村 均…マッカーサーをも感動させた「責任を取る」生き方
・松尾まつ枝…オーストラリア国民を深く感動させた日本武人の母
・樋口季一郎…二万人のユダヤ人を救った「偉大なる人道主義者」
・重光 葵…昭和天皇の大御心を体して激動の時代を支えた外交官
・後藤 新平…「生物学の法則」で台湾の成長を促した台湾育ての親
・李方子妃…日本の皇族から朝鮮の皇太子妃となった日韓の架け橋
・高峰譲吉…「飢えた人々の救済」を原点に活躍したサムライ化学者
・明治天皇…世界中の人々から賞賛された変革の指導者

などなど。戦争での勇敢な話やスペクタクルな話だけではなく、日本が大和魂を持って、世界に平和的な貢献を果たしてきた事例がこんなにあるのか、と驚きと感動を覚えることだろう。
個人的には、皇太子殿下の水問題における世界的評価の話と、今村均大将の敗戦後のエピソードに特に感銘を覚えた。

こうした人々を、もっと日本史の教科書の近代史のページでコラム的に取り上げて欲しい。ありもしないことまで日本の「戦争犯罪」について書き連ねるより、そのほうがよほど建設的だ。
あるいは、昔の『修身』の教科書スタイルで、『道徳』ではこうした人々のエピソードを「偉人」として教材にしてもいいのではないだろうか。
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■参考■
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 上坂冬子『ハル・ライシャワー』、講談社、H6
アマゾン・カスタマー・レビュー 2件(五つ星のうち3.5)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062074060/japanonthegl0-22/


ハル・ライシャワー
講談社
上坂 冬子
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