「最後の将軍 徳川慶喜の決断」宮田正彦、『致知』H30.2

・慶喜は20歳頃、父親の斉昭に「もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ぶようのごときことあらんか、我等はたとへ幕府に反(そむ)くも、朝廷に向かいて弓引くことはあるべくもあらず」と、光圀公以来代々水戸家に伝えられた家訓を告げられている。

・慶喜公は将軍職に就いた時点で、すでに幕府だけでは国家の難局は乗り切れないと見通し、いつかは大政奉還しなければならない、と考えていた。問題はいつどのようなタイミングで行うかだった。

・慶喜公は、大政奉還に際し、このまま幕府と倒幕派の対立が激化すれば、国内が分裂し、西洋列強の介入の危機を招いてしまう、だから、ここは政権を朝廷にお返しして、聖断を仰ぎ、共に心を合わせ力を尽くして行こうと考えた。

・鳥羽伏見の戦いに際し、慶喜公は京都の軍の大将・松平容保と大阪の大将・松平定敬を連れて江戸に帰ってしまう。これは逃げ出したのではなく、京都大阪の軍を封じ、これ以上は絶対に戦わない、と言う明確な意思表明だった。

【伊勢雅臣】幕末に日本が分裂せず、外国軍の介入を防いだまま、大政奉還ができたのは、光圀公以来の尊皇の学問があったからです。

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■出典
・『致知』、致知出版社 https://www.chichi.co.jp/info/

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