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zoom RSS No.1022 支倉常長 〜 伊達政宗がスペイン国王とローマ教皇に送った使節

<<   作成日時 : 2017/08/27 07:26   >>

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 常長は7年かけて地球を半周し、メキシコと欧州各地で熱狂的な歓迎を受けた。

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■1.ローマでの日本武士たちの行進

 1615(元和元)年10月29日、日本では大坂夏の陣で大阪城が落城した年、ローマでは伊達政宗が送った使節・支倉常長(はせくら・つねなが)の一行の入市式が行われた。一行が仙台藩の月浦港を出てから、太平洋を横断してメキシコに着き、さらに大西洋を渡ってスペインからローマに辿り着くまでに、ちょうど2年と1日を要していた。

 地球のはるか裏側から来た使節団を一目見ようと、道筋にはあらゆる階層の群衆が集まり、建物の窓辺には着飾った貴婦人たちが並んで、それだけでも素晴らしい見世物になった。

 使節団の行進は、近衛騎兵隊50騎、ローマ・フランス・スペインの大使や貴族たち、騎士たちからなる豪勢な行列から始まった。続いて、日本の武士たちが大小の刀を差して歩いた。

 やがて使節の支倉常長が、ローマ教皇の甥と並んで、騎乗して現れた。両側は矛や槍をもった教皇のスイス人衛兵に守られていた。支倉は白地の和服に動物や鳥や草花の図柄が金銀の糸で刺しゅうされた豪華な衣装で人々の目を奪った。頭にはローマ風の帽子を被っていたが、群衆の歓呼に応えて、その帽子をとって楽し気に挨拶をした。

 一行がサンピエトロ大聖堂前の広場を堂々と進むと、教皇はヴァチカン宮殿の窓越しにこれを見て、何と素晴らしいものかと、繰り返し喜びの情を示し、天を仰いで、はるばる遠く異教徒の国から神のお導きでやって来たことを感謝した。

 実は、この4日前の夕刻、一行がローマに到着した際に、教皇の使者が待ち構えていて、常長はすぐに呼び出された。それほど、教皇は一行の到着を待ち焦がれていたのである。


■2.メキシコとの交易

 常長一行を乗せた使節船が、仙台の東北東約70キロ、石巻湾に面する月浦港を出発したのは、ほぼ2年前のことだった。藩主・伊達政宗が徳川家康の後ろ盾を得て、自ら船を造り、大勢の商人や荷物を積み込ませて送り出したのだった。

 その主たる狙いはメキシコとの交易であった。家康は頻繁にフィリピン総督と書簡を交換しており、メキシコとの通商のために、スペインとの関係を保とうとしていた。キリスト教は徐々に禁じつつも、貿易は続けたいと考えていたのである。

 1588年にスペインの無敵艦隊が英国艦隊に破れ、1600年頃にオランダ北部7州がスペイン統治から実質的に独立すると、アジアの海においても英蘭がスペイン、ポルトガルの覇権に挑んでいた[a]。家康は貿易の相手国として、従来からのスペイン、ポルトガルと、新興のイギリス、オランダと両天秤にかけていた。

 一方、スペイン、ポルトガルは同じ国王の下にあったが、両者間にも内部抗争があった。従来はポルトガル系のイエズス会が日本での独占的な布教を許されていた。キリスト教布教と植民地化を並行して進める一派で、わが国では西国大名に取り入って勢力を伸ばした。その脅威を感じた信長、秀吉、家康がキリシタン禁制を進めたのは、イエズス会の活動に対してだった。[b]

 一方、スペイン系のフランシスコ会は、1600年にローマ教皇がイエズス会以外の宗派にも日本布教も容認する勅書を発してから、日本に進出を始めた。フランシスコ会はイエズス会よりははるかに大きく、また活動の軸を布教と貿易としていて、安全な存在だった。

 1603年に来日したフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロは、4ヶ月で日本語を習得し、伊達政宗に近づき、遣欧使節の一人となった。

 この40年ほど前に、フィリピンとメキシコを結ぶ太平洋横断の航路が発見されていた。フィリピンから黒潮に乗って北上し、日本近海で東に吹く貿易風に乗り、一気に太平洋を横断して、カリフォルニア北部に着き、そこからカリフォルニア海流に乗ってアカプルコまで南下する。帰りはアカプルコからフィリピンまで直行する。

 スペイン船がこの航路を活用すれば、仙台藩はフィリピンとメキシコを結ぶ交易の中継点となり、今まで西国が独占していた南蛮貿易に進出できることとなる。フランシスコ会と結んでメキシコ貿易に加わることは、伊達政宗にとって魅力的な経済振興策であった。


■3.国内で作り上げた「黒船」

 驚くべき点は、伊達政宗がメキシコに向かう大船を国内で作り上げたということである。すでに国内の造船技術は高く、フィリピンやタイへ向かう朱印船では400人も乗れる船があった。その造船技術を使って、政宗はスペイン人の指導は受けつつも、自力で太平洋横断可能な大船を建造させたのである。

 政宗からは「黒船」、スペイン側からは「サン・ファン・バウティスタ」号と呼ばれたこの船は、二本の高いマストに横帆がはためく西洋風の船で、船体500トン、長さ35メートル、幅10.8メートルと、ヨーロッパの遠洋航海船と比べても立派なものであった。この船は二度も太平洋を往復し、最後はフィリピンでスペイン艦隊に売られたほどの頑丈な造りであった。

 メキシコまで使節を派遣するにしても、使節をスペインの船に同乗させて貰った方がはるかに容易なはずだが、わざわざ自国で造った船でメキシコまで赴く、という点に、対等の文明国としてスペインと交渉しようという政宗の自負が窺える。

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宮城県慶長使節船ミュージアムで復元されたサン・ファン・バウティスタ号



■4.「忍耐強そうな、気負ったところのない正直な日本の武士」

 ソテロとともに使節として選ばれた支倉常長は伊達政宗に重用されていた家臣で、戦国の争いの中では、敵方への密使を務め、相手方の武将の一人を味方につけて戦局を有利に導くなど、政治力、統率力に優れた武将であったようだ。

 教皇の要望で描かれた常長の肖像画がローマ郊外のボルゲーゼ宮に残っている。美術史の大家・田中英道氏はこう評している。

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 何と忍耐強そうな、しかし気負ったところのない、正直な日本人の武士が描かれていることであろう。恐れも蓋恥心もない、まさにありのままの日本人の表情といってよい。それに何と丹念に白い絹地と笹や鹿などの模様が描かれていることか。腰の刀の鍔(つば)にもまた、伊達家の九曜紋がきっちりと描かれている。[2, 199]
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 その忍耐強い、気負ったところのない正直な日本の武士として、常長は7年に渡る地球を半周する主命の旅を完遂したのである。

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■5.熱狂的な歓迎

 1613(慶長18)年10月28日に月浦を出た使節船は、ちょうど3ヶ月かけて太平洋を横断し、翌年1月28日にメキシコ・アカプルコ港に入った。メキシコではスペインの副王が、南北アメリカとフィリピンを統治していた。到着の様子をスペイン側の記録はこう記述している。

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 王家の紋章を付け、輝くばかりに壮麗な船が、ローマ教皇聖下とカトリックのスペイン国王陛下のもとへ向かう日本からの大使たちを乗せてアカプルコ港に姿を現した時、裁判官や港湾管理長官たちは、使節の肩書に敬意を表して、できるだけ手厚くもてなすことにした。

 船が近付いて和平のしるしにたくさんの号砲を鳴らすと、港でも号砲を盛んに鳴らし、大勢の火縄銃兵も同じことをし始めた。[1, p99]
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 「王家の紋章」とは使節船の船尾に飾られた伊達家の九曜紋だろう。こうした大歓迎が、これから一行の立ち寄る各都市で繰り返されるのだが、その陰には政宗や常長、ソテロの冷徹な計算があったと思われる。

 まず、スペインやポルトガル両国は、軍事的にも経済的にもイギリス、オランダに追い上げられていた。それはローマ教皇から見れば、カトリックがプロテスタントに負けつつあるという事だった。そんな時に、地球の裏側の、それも大船を自力で作れるほどの文明国が、通商と布教を求めて使節を送り込んできたのである。

 スペイン国王、ローマ教皇、そして貴族階級から一般市民までが熱狂的に常長一行を歓迎したのは当然だろう。冒頭に述べたローマでの歓迎ぶりはその現れであった。

 また、ソテロというフランシスコ会の宣教師をもう一人の使節とした事も優れた手であった。

 日本布教の独占を崩されたイエズス会は「使節は単なる一地方の領主からのものだ」とか、「布教を求めるのは見せかけで、貿易だけが真の狙いだ」などと、スペインやローマで盛んに陰口を叩いたが、対立するフランシスコ会は自派の宣教師ソテロが加わっていただけに、一行を熱心に保護、支援したのである。


■6.常長とソテロの交渉ぶり

 メキシコの副王に対して、常長とソテロは今回の使節派遣の目的を次のように説明した。

・メキシコ交易の実現は日本に折衝を強めるオランダ、イギリスの勢力拡大を阻止する効力がある。
・日本側が造船する場合は経費を負担するため、スペイン側の出費の軽減につながる。
・メキシコの産金が必要とする日本産水銀の安価で大量の輸入が可能になる。
・キリスト教禁圧が進行する現在の日本で、この交渉が実を結んだ場合には、フランシスコ会ばかりでない他宗派への厚遇と恩恵の供与が約束される。

 このように貿易面、布教面でのスペイン側のメリットをきわめて実利的、論理的に説いている。これはソテロのスペイン側の実情に関する知識を基に、常長の相手の心理を洞察する鋭さが現れた交渉ぶりだろう。

 その上で、両者がメキシコ副王に誓願しているのは、同地からさらにスペインへ向かう旅の庇護と支援であった。というのは、その地の滞在費と次の目的地までの旅費は、その都度、滞在地の支援に頼らざるを得ないからである。逆に言えば、一行は各地において「庇護と支援」を受けることに成功しつつ、メキシコからスペイン、ローマまで辿り着いたという事になる。


■7.「大使の物腰から自ずと発せられる精神の輝きと思慮深さ」

 常長は、訪れる各地の人々に強烈な印象を残した。その人品への賛美が、そこかしこで語られている。

 たとえば、スペイン国王から「大使はローマに赴くのか」と質問された時に、常長は「その旅に出るために陛下のお許しと命令を待つのみです」と答えた。こんな返事をされて、喜ばない人間はいない。国王は、既に命令は発した旨を返答し、常長は国王の手に感謝の口づけを捧げたのである。

 国王はさらにローマ教皇に書簡を送り、一行は確かな使節であり、自分が便宜を与えたこと、教皇が大いなる慈愛と寛容をもって使節を受け入れていただきたい旨を記していた。

 スペインで国王に次ぐ実力者のレルマ公は「大使の物腰から自ずと発せられる精神の輝きと思慮深さを、絶え間なく看取しており、近年世界最果ての地から使節が訪問するのは、スペイン国王の王冠にとって大きな僥倖である」と再三繰り返した。

 マドリッドを発って、バルセロナへの途上、サラゴサでは同地の副王の宮殿で豪華なもてなしを受けたが、その後の懇談が2時間も続いた。そこでは常長はすべての質問において的確な返答を行ったため、副王は彼の賢明さと優秀さに驚嘆したという。

 ローマで常長を描いた油絵が、「何と忍耐強そうな、しかし気負ったところのない、正直な日本人の武士」として描かれているのは、こうした常長の人格から受けた感銘を表しているのだろう。


■8.地球史的偉業

 類い希な戦略と人品、そして7年をかけて地球を半周する粘り強さで、常長は元和6(1620)年9月に仙台に帰還した。しかし、その使節としての直接的な成果はほとんどなかった。日本では徳川幕府がキリスト教禁制を強めつつある様子が伝えられ、スペイン国王も大手を振って日本との通商を許せる状況ではなくなっていた。

 同時に、スペイン・ポルトガルとイギリス・オランダを両天秤にかけていた家康が亡くなり、2代将軍秀忠は完全にイギリス・オランダ側についていた。スペイン・ポルトガルの経済も文化も衰退する中で、布教はせずに交易だけを求めるプロテスタント国があれば、日本としては十分であった。

 しかし、イギリスやオランダにも常長一行の情報は届いていた。一行がスペインに上陸した時点で、「大使は国王と教皇に2百万レアル以上に見積もられる豪華な贈り物を携えてきた」と驚く報告が、イギリスの国務大臣に寄せられている。

 さらに、常長らの行程を記録した書物が、その帰国前の1617年にドイツ語訳まで出版されている。日本からの使節到着は、当時のヨーロッパ全体を驚かせていたのである。

 自ら大船を造り、これほどの豪華な贈り物を携えた大使を送り込む日本の国力を、欧州諸国は畏怖の念をもって知ったであろう。オランダは日本との交易を長崎でのみ許されたが、そもそもオランダ船は各地で海賊行為を行い、フィリピンを武力で攻め立てたり、インドネシアで3百年も圧政を続けた事を見れば、オランダが平和的な国であるとは到底、言えない。

 そのオランダですら日本との交易で、大人しく長崎の出島に閉じこもって日本のルールに従っていたという事は、それだけ日本の国力に畏怖の念を持っていたからであろう。その畏怖の形成に、常長の渡欧が与(あずか)っていたことは想像に難くない。

 常長の渡欧は、大航海時代に世界を我が物顔で闊歩していた西洋諸国に対する非西洋諸国からの反抗の最初狼煙(のろし)であった。それは白人世界に対する本格的な反撃となった日露戦争と大東亜戦争の先駆けとも言える地球史的事件であったのである。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(992) 歴史教科書読み比べ(32): 「鎖国」〜徳川幕府の安全保障政策
 鎖国はカトリック勢力の世界侵略から「わが国の独立を守り、平和を維持するための対策」だった。
http://blog.jog-net.jp/201702/article_5.html

b. JOG(982) 歴史教科書読み比べ(29) ヨーロッパとの出会い
 キリスト教宣教師を尖兵として世界を植民地化しようとする西洋諸国に、日本はいかに対峙したか。
http://blog.jog-net.jp/201612/article_3.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 濱田直嗣『政宗の夢常長の現―慶長使節四百年』★★★、H24、 河北選書
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2. 田中英道『支倉常長―武士、ローマを行進す』★★★、ミネルヴァ日本評伝選、H19
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