国際派日本人養成講座

アクセスカウンタ

かっぱさんのBookmarkBar

zoom RSS No.953 国史百景(20): 中央アジアにオペラ劇場を作った日本人抑留者たち

<<   作成日時 : 2016/05/29 05:39   >>

ナイス ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 0


「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」

■転送歓迎■ H28.05.29 ■ 46,470 Copies ■ 4,187,884Views■

__________
■『世界の称賛する 日本人の知らない日本』発売 税込み\1,620
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

・amazonでは発売と同時に売れ切れになり、ご迷惑をおかけしています。皆様の応援、ありがとうございます。お読みいただいた方はぜひカスタマー・レビューの投稿をお願いします。

・図書館・学校への寄贈依頼も54件、寄せられました。海外の日本人学校にもお送りしています。まだまだ枠はありますので、お申し込み下さい。
http://blog.jog-net.jp/201605/article_8.html
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■1.「大きな地震が起こったら、、、」

 1966年4月26日、中央アジアのタシケント市が直下型の大地震に襲われた。ソーヤは「みんな外に出て!」と子供たちに向かって叫んだ。子供らの手を掴んで外に飛び出しながら、「近くのナボイ劇場の建っている公園に行って! 噴水の周りに集まりましょう」と叫んだ。あちこちの家が崩れている。

 ソーヤがナボイ公園に逃げることを咄嗟(とっさ)に思いついたのは、20年前に、まだ少女だった頃、ナボイ劇場建設に従事していた日本人抑留者たちから、「大きな地震が起こったら、家が倒れて逃げられなくなるので、広場などに避難した方が良い」と教わったことを思い出したからだ。

 と、同時に、あの真面目で仕事熱心だった日本人抑留者たちの建てたナボイ劇場も壊れてしまったのだろうか、と気になった。多くの人々が、同様にナボイ公園に向かっていた。

 しかし、公園に着いた人々は、みんな息をのむほどに驚いた。ナボイ劇場は、何事もなかったかのようにすっくと立っていた。

画像



■2.中央アジア各国の広まった日本人伝説

 ナボイ劇場は地上3階建て、地下1階、1400席を備えた壮麗なレンガ作りの建物で、旧ソ連時代ではモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、キエフのオペラハウスと並び称される四大劇場の一つとされていた。

 大地震で政府系建物240、工場250、約8万の家が崩壊し、タシケントの街がほぼ全壊したといってもよい状況の中で、ナボイ劇場だけが無傷だった。

「外壁も崩れていないし、レンガ建てなのによく壊れずに美しくそびえ立っているな」

「レンガの張り付け、積み立て、継ぎ目などの仕事がしっかりしていたからびくともしなかったんじゃないか。建物の角やレンガを積み重ねて形造っている目地も相変わらず見事な美しさだ」

 タシケント市のシンボルであるナボイ劇場が凜として立ち続けている姿を見て涙ぐむ人もいた。ソーヤの目からも涙がこぼれ落ちた。子供たちに言った。「ね、すごいでしょ。あの劇場づくりをお母さんも手伝ったの。でも本当に一生懸命作ってくれたのは、一緒にいた捕虜の日本人だったのよ。」

 大地震にも倒れなかったナボイ劇場の話は、瞬く間にウズベキスタン国内だけでなく、隣接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなど中央アジア各国に伝わった。日本人は優秀で真面目な民族だという「日本人伝説」が広まり、1991年のソ連崩壊で各国が独立した後に、国家目標として日本人を見習おうとする国も出てきた。


■3.タシケントへ

 奉天の第10野戦航空部隊で航空機の修理を担当していた永田行夫大尉以下250名がタシケント市に到着したのは、1945(昭和20)年10月下旬だった。8月15日の玉音放送を受けて日本軍が降伏すると、19日にはソ連軍の航空機が次々と奉天の飛行場に着陸した。

 ソ連兵は「ダモイ(帰国)、ダモイ(帰国)」と言いながら、日本兵を貨車1両に50人もの割合で詰め込んだ。「帰国」と騙して抵抗を防ぎつつ、貨物列車は西に向かった。

 日本の降伏直前に、日ソ中立条約を蹂躙して満洲になだれ込んだソ連軍は、戦争終了後に捕虜をシベリアや中央アジアでの強制労働で使役するという、国際法違反を犯したのであった。

 永田大尉の一行は貨物列車で約4千キロ、1ヶ月半もかけてタシケント市に連れてこられた。ここでソ連は革命30周年にあたる1947年11月7日までに、壮麗なオペラハウスを建設する計画を立てていた。

 航空機の修理をしていた永田の部隊に技術者が揃っていることから、この任務につけたようだ。他の部隊からも補充を受けて、永田は24歳にして、18歳から30歳までの457人を指揮する立場となった。


■4.「ノルマを守らない者は食事も少なくなる」

 1947年11月とは2年も先だ。「最低2年は、この収容所で暮らすということか」と皆、がっかりした。永田は「我々の仕事は劇場を建設することだが、最も重要な使命は全員が無事に健康な状態で日本へ帰国し家族と再会することだ」と皆に諭(さと)した。

 その後、測量、鉄骨組立、レンガ積み、電気工事など、各自の職歴と適性をもとに班分けをして、建設作業が始まった。

 収容所所長のアナポリスキーは、「ノルマを守らない者は食事も少なくなる」と、社会主義の基本原則を押しつけた。その食事にしても、黒パンや塩っぱいキャベツの漬物、羊肉と言っても骨ばかりで、一日2千カロリーほどしかなかった。

 しかし、仕事が違うのに、公平なノルマなどできるはずもない。床張り、電気工事などは日本で職人をしていた人にとっては軽々とノルマを達成できるが、穴掘りやレンガ積みなど、きつい肉体作業はノルマ達成が難しい。罰として食事を減らされると、体力が落ちてますます難しくなる。数ヶ月も経つと、こうした不公平から不満が高まり、収容所内で喧嘩にまでなりそうだった。


■5.「今回は君たちのやり方を認めよう」

 永田は「全員が無事に帰国する」という至上目的のためには、皆に公平な食事がわたるようにしなければならない、と考えた。しかし、アナポリスキー所長をどう説得するか。そこで永田は、各自がノルマに応じた食料を受けとった後、公平に再分配させるようにした。

 その光景を見ていたソ連兵たちは驚いて、所長に報告した。所長は食堂にやってきて「永田隊長はどこにいる」と大声を出した。永田は「ここにおります」とゆっくり立ち上がった。所長が「これは規則違反だ」と言うと、食堂はシーンとなった。永田は通訳を通じて、所長の目をしっかり見つめながら、語り出した。

 永田が「ソ連の社会主義政策では、働いた上で本人に与えられた物は、その本人が自由に処分してもよいんですよね」と言うと、所長は「当たり前だ」。

__________
 それを聞いて安心しました。今日の食事は、ノルマ以上の達成で多くの量を与えられた兵が、自分の裁量で配分が少なかった兵に自分の分を分け与えたんであります。その結果として全員がほぼ同じ量、平等になったわけです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 所長は「してやられた」という顔で、「まあ、今回は君たちのやり方を認めよう」と言って、永田の肩をポンと叩いて出て行った。「度胸があり、兵隊思いのよい男だ」と感じ入ったのである。

 食事に関しては、ウズベク人たちの隠れた支援もあった。穴掘りに疲れて立っている青年に、老婆が「私の息子は独ソ戦でお前と同じ年頃に死んだよ」と言って、手提げ袋から黒パンをひと塊出して「お腹空いているんだろう。これを食べなさい」と言ってくれた。

 「父母はどこか」と聞くので「東京にいる」と言ったら「おお、かわいそうに、、、」と肩を抱いてくれた。その青年は涙が止まらなかった。こういう形で、差し入れをしてくれるウズベク人が後を絶たなかった。


■6.「日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたい」

 1946年になると、工事を加速するためにウズベキスタンの各地から抑留者が次々と送り込まれてきた。その中に、日本大学の建築学科を出た若松律衛(りつえ)少尉がいた。ソ連側は若松の能力を見込んで、工事全般の日本側総監督を命じた。

 困った若松は永田に相談した。永田は「全体を監督できるのは、あなたしかいない。協力し合ってやろう」と若松の手を握った。さらに、こう続けた。

__________
 むろん、手抜きをしたり、いい加減なやり方で格好をつけた建物にすることもできると思うが、私はソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたいと思っている。

 捕虜としてやるのだから別にそこまで力を入れなくても良いだろう、という意見もあるだろう。しかし私の気持ちとしては、後の世に笑われるような建築物にはしたくないと考えている。さすが日本人の建設したものは、“出来が違う”といわれるものにしたいと本気で思っている。・・・

 捕虜になって多くの兵隊は生きる張りを失い、先も見えず精神的に弱っている者もみかける。そんな時だけに、自分たちがこれまでに培った技術、技能で世界に引けをとらない建築物をつくるんだという一点を生きる気力の糧にしてくれたらと願っている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 若松は永田の言葉を聞いて、胸が熱くなった。「この人と協力して歴史に残るような建築物を作るよう全力を尽くそう」と決心した。そんな「日本人の誇りと意地」が劣悪な生活環境で、抑留者たちを支えていた。


■7.「何のおまじないなのだ」

 日本人の働き方を見て、ロシア人やウズベク人が不思議に思ったのは、皆で重い物を持ち上げたりする時に、「セーノ」とか「ヨイショ」と声を合わせることだった。「何のおまじないなのだ」とウズベク人が聞いてきた。一人の日本人はこう説明した。

__________
 これはね、皆で重いものを持ち上げる時に、“セーノ”と言ったら、一斉に力を出して持ち上げるんだ。日本人はなるべく皆が一緒に力を合わせてやった方が上手くいくと教えられてきた。それが日本独特の“和”の精神さ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「“ワ”というのか」と不思議がったが、ウズベク人たちも一斉に「ヨイショ」と声をあげて力を合わせると石が持ち上がり、みんな「なるほど」という顔をしていた。

 永田は、そんなエピソードを挙げて、アナポリスキーに“和”を説明した。

__________
 和というのは皆で一つの大きな仕事を完成させる時に最も大事な協力の精神の事です。皆が助け合い足りないところを補いあうから、日本では仕事が早くうまくゆくのです。

 二、三人の優れた者がいてもオペラハウスの建設のような大きな仕事はできません。日本人はそのことを知っているので、皆が助け合って仕事を進めているんです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 さらに食事の平等な配分もこの考え方に基づいている事を説明した。アナポリスキーは「あなたは立派なリーダーだ。日本人の協力の精神の源や仕事のやり方、生き方を知ることができて大変参考になった。ありがとう」と永田の手を強く握りしめた。


■8.日本人は本当によくやってくれた”

 日本人抑留者たちは、こうして建設に励む一方、休みの日には花札やトランプ、果ては麻雀牌まで手作りして、一緒に遊んだ。ソ連兵も面白がって、「教えろ」「教えろ」と麻雀に加わるようになった。収容所内はぐっと明るくなった。

 また、ソ連兵が時々、ロシア民謡を合唱しているのを聞いて、日本人の一人がバイオリンを手作りして、伴奏した。こうした動きが盛りあがって、ついには日ソ合同の演芸大会まで開催された。近所のウズベク人も大勢、押しかけた。

 他の収容所のように、ソ連の共産主義教育で洗脳された日本兵がかつての将校を吊し上げる、というような陰惨な光景は、この収容所ではついぞ見られなかった。

 1947年9月の初め、劇場が完成に近づいたので、永田はソ連側の了承を得て、仮の完成式を行う事とした。無事に立派な建物を作りあげた事を皆で確認し、喜び合いたい、と思ったのである。

 9月中旬の日曜日、抑留者たちと、一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちが続々と劇場前に集まった。永田が「皆の前に建っているこの壮麗なナボナ劇場は、私達日本人を中心に一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちとの汗と涙の結晶だ」と挨拶した。

 ソ連将校やウズベク人が永田に近づいて握手し、何事か囁いた。永田は大きく頷き、皆に告げた。

__________
 ロシア人もウズベク人も日本人は本当によくやってくれた。素晴らしい民族だ≠ニ言っている。それと後で、私達の作った舞台でロシア人、ウズベク人がバレエを披露するので見て欲しいと言っている。楽しみに見せてもらおう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 抑留者たちは、出来上がった劇場を見学し、後世に残る建物を作りあげたことに誇りを抱いた。永田は見学後に、隊員たちに、もう一度、声をかけた。

__________
 日本はアメリカの爆撃でそこら中が廃墟のようになっていると聞いている。・・・ ぜひ、諸君らも帰国したら世界から敬意を表されるような日本を再建し、そのような日本人になって欲しい。私たちはここで礎を築くことを学んだし、感じたはずだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 永田は胸にこみあげる思いを呑み込んで、一気に話した。思い残すことは、もうなかった。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(946) 国史百景(19): ウズベキスタンの桜
 ソ連に抑留され、ウズベキスタンで強制労働に従事して亡くなった日本人の墓を、地元の人々は大切に護ってきた。
http://blog.jog-net.jp/201604/article_2.html

b. JOG(525) シベリア抑留
 「ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してくれ」
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog525.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 嶌信彦『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』★★★、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4041035376/japanontheg01-22/


■おたより

■日本人として誇れる実話に感動!(正雄さんより)

 きょう(5月29日)の「中央アジアにオペラ劇場を作った日本人抑留者たち」を読み、感動しました。こういうすばらしい話は今の子どもたちや学生にもぜひ聞かせたいと思いました。

 日本人の「和」の精神が強靱な最良のオペラ劇場を作ったのには正直言って驚きました。あの時代ですから、大変な作業だったと思います。

 しかし、若干24歳の永田行夫大尉は457名をうまく指揮してソ連兵を圧倒させました。彼の統率力には情があり人間味もあります。だから、みんな動くのでしょう。

 日本へ必ず全員を帰国させるという使命感もありました。その強い思いがこの偉業を見事に成し遂げることになりました。戦争終了時のこのような美談があったとは知りませんでした。彼のリーダーシップは現代の指導者たちにも十分役立ちます。

 永田大尉のようなすばらしい人材は今の日本では数少ないでしょう。永田大尉も魅力あるリーダーでしたが、その器量を見抜いた収容所所長のアナポリスキーもなかなかの人物だと思いました。

 彼が永田大尉に言った言葉、「あなたは立派なリーダーだ。日本人の協力の精神の源や仕事のやり方、生き方を知ることができて大変に参考になった。ありがとう」は敵(当時)の言葉とは思えないほど日本人のよさを褒めているものであると感じました。こういうことは稀でしょう。アナポリスキーの人間性も素敵だと思います。

 日本独特の「和」の精神は今も脈々と生きています。こういう感動的な話を学校教育の道徳などで取り上げれば、日本人としての誇りが持てると思います。よい話を取り上げてくださり感謝します。

追伸:伊勢雅臣氏の著書『世界が称賛する 日本人が知らない日本』がきょう届きました。これからじっくりと読ませていただきます。楽しみにしています。


■編集長・伊勢雅臣より

 永田大尉のような立派な日本人は、そのまま国際社会でも通ずる「国際派日本人」だということですね。



amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
ナイス ナイス ナイス ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
No.953 国史百景(20): 中央アジアにオペラ劇場を作った日本人抑留者たち 国際派日本人養成講座/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる