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zoom RSS No.927 歴史教科書読み比べ(24) 建武の中興

<<   作成日時 : 2015/11/22 07:37   >>

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「挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活した」

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■1.楠木正成を知っていますか?

 明治3(1870)年に来日して4年ほど滞在し、"The Mikado's Empire" (『ミカド』)を著した米人W・E・グリフィスは、同書の中で、「日本の学生や友人に、日本の歴史の中でもっともすぐれているのは誰かと聞いたとき、彼らはすべて楠木正成と答えた」と書いている。

 しかし、今日ではどれほどの人が楠木正成の名前だけでも知っているだろうか? たとえば、東京書籍版の中学歴史教科書では「鎌倉幕府の滅亡」の項の一節で楠木正成が登場する。

__________
 こうした状況で後醍醐天皇は、政治の実権を朝廷に取りもどすために、幕府をたおそうとしました。天皇は、一度は隠岐(島根県)に流されましたが、楠木正成などの新興武士や有力御家人の足利尊氏などが味方したことで、1333年、鎌倉幕府をほろぼしました[1,p69]
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 これでは楠木正成は、せいぜい後醍醐天皇に荷担して、鎌倉幕府を滅ぼした人物の一人という程度の認識しか持ち得ない。そしてその名前も、試験が終われば、すぐに忘れ去ってしまうだろう。

 明治初年にグリフィスの学生や友人がすべて「日本の歴史の中でもっともすぐれている人物」として楠木正成を挙げたのとは、何という断絶だろうか。


■2.先人が手に汗握りつつ読んだ『太平記』

 自由社版中学歴史教科書は、同じく「鎌倉幕府の滅亡」と題しながら3倍ほどの分量の記述をしている。

__________
 14世紀の初めに即位した後醍醐天皇は、天皇みずからが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために、倒幕の計画を進めた。初めは計画がもれて2度も失敗し、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に移された。

 後醍醐天皇の皇子の護良(もりよし)親王や、河内(大阪府)の豪族だった楠木正成らは、近畿地方の新興武士などを結集して、幕府とねばり強く戦った。

 やがて、後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、形勢は一転した。幕府軍からは御家人の脱落がつづき、足利尊氏(あしかが・たかうじ)が幕府にそむいて、京都の六波羅(ろくはら)探題をほろぼした。ついで新田義貞(にったよしさだ)も朝廷方につき、大軍をひきいて鎌倉を攻め、1333(元弘3)年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。1,p92]
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 この部分は『太平記』を通じて、代々の日本人が手に汗を握りつつ読んだドラマであり、自由社版では限られたスペースながら、その筋書きを追っている。

『太平記』が大好きな、ある高校の日本史の先生がまさに講談のごとく楠木正成の活躍を語るのを、引き込まれるように聞いた経験がある。聞きながら、こういう授業を聞ける高校生は幸せだな、と思った。この授業を聞いた高校生たちは、明治初年に楠木正成を尊敬すると答えた学生の気持ちが良く分かるだろう。

 そこまでいかなくとも『太平記』の現代語訳や吉川英治の小説『私本太平記』を読ませても良い。弊誌でも264号「楠木正成 〜 花は桜木、人は武士」に取り上げているのでご覧戴きたい。[a]

 現代の中学生たちがこの物語を手に汗握りつつ読むことで、先人たちとの時代を超えた共感を持つことこそ、真の歴史教育なのではないか。


■3.後醍醐天皇は何を目指して倒幕に立ち上がったのか?

 楠木正成は後醍醐天皇のために身命を賭して戦ったのだが、その後醍醐天皇は、そもそもなぜ倒幕に立ち上がったのか? 二度も謀り事が露顕して隠岐に流され、それでも再起して立ち上がるというのは並大抵の執念ではない。

 元寇の時の鎌倉幕府は、時宗の英断と御家人たちの果敢な戦いぶりで国家を護ったが[b]、その後の御家人たちは新領地の褒賞もなく、さらに戦後の防衛強化でも大きな負担をかけられて、幕府に対する不満を募らせていた。

 幕府内でも、執事である長崎氏が実権を握って賄賂政治を行い、時宗の孫・高時は執権ながらも遊び暮らしていた。御家人の内紛で合戦が起こっても止められないほど、幕府体制は弛緩しきっていた。

 こういう状況で後醍醐天皇は倒幕に立ち上がったのだが、天皇が何を目指したのか、について、前述の2社の歴史教科書は微妙に食い違っている。自由社版は「天皇みずからが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために」とし、東書版は「政治の実権を朝廷に取りもどすために」と述べている。


■4.「公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた」

 それぞれ間違いとは言えないが、これだけでは中学生にはピンとこないだろう。東書版の「政治の実権を朝廷に」では、武士の世になったことが判っていない時代錯誤、などと冷ややかな視線を向ける向きもあるだろう。

 この点に関しては、自由社版は次の「建武の新政」の項で、「後醍醐天皇は京都にもどると、天皇親政を目標とし、公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた」とあり、こちらの方が史実に近い。

 実際に新政の中心となった「記録所」には楠木正成と名和長年(JOG注:隠岐脱出した後醍醐天皇を迎え入れた武士一族の長)が配された。また貴族にしても従来の世襲制を改め、家柄は低くとも能力ある人材は積極的に登用している。「公家、武士の差別なく朝政に参与させることにした」というのが史実である。[3,p241]

 一方、自由社版の「天皇親政」もやや言葉足らずで、戦前の「天皇主権」か、などと短絡的に誤解する生徒がいるに違いない。もう少し詳しい説明が必要だ。


■5.「後の醍醐」天皇の理想

 それでは具体的に後醍醐天皇の理想とはどのようなものであったのか。それは天皇自ら「後醍醐」と称せられた史実から窺うことができる。通常、「○○天皇」とは崩御された後に定められる御称であるが、後醍醐天皇の場合は自ら「後醍醐」と称された。

「後醍醐」とは、「後の醍醐」という意味で、平安時代の初期に「延喜(えんぎ)の治」と称えられた醍醐天皇の治世を再現しようとされたのである。

 聖徳太子が17条憲法で描いた理想国家[c]を、天智天皇が大化の改新で具現化し[d]、さらに天武・持統天皇の代に完成させたのだが[e]、その統一国家の体制が整って結実したのが、平安時代の初期、醍醐天皇の御代であった。

 醍醐天皇のあしかけ35年の治世の間、朝廷は制度典礼を整えて奢侈を遠ざけ、荒廃した田畑の再開発を奨励し、民政の改善が進み、『古今集』など文芸が盛んになった。

 その後は藤原氏による摂関政治、上皇による院政、武家による幕府政治と、統一国家の形が崩れていった。その乱れが窮まった姿が、本来国家組織の中で治安を担当すべき武士が権力を専横して幕府として賄賂政治を行い、さらには御家人どうしの内紛で合戦まで起こすという、鎌倉幕府の末期症状であった。

 この末期症状を治すには、醍醐天皇の時代の統一国家体制に戻さねばならない、というのが、後醍醐天皇の理想であった。それは近代流に言えば、「天皇を国家統合の中心とし、その愛民の精神を文武の官が体して政治を行う」という姿なのである。その本質は、明治維新以降の近代日本の統治形態と変わらない。


■6.統一国家への苦闘

 後醍醐天皇は、この理想を追求するために、父君・後宇多上皇と諮って2百年も続いていた院政を取りやめた。「御宇多」上皇というのも、醍醐天皇の父君である宇多天皇に、自らをなぞらえたものであった。すなわち、ご自身の次に「後の醍醐」天皇を、と期待されたのであり、その理想を受け継いだのが後醍醐天皇であった。[4,p31]

 また、当時は、持明院統と大覚寺統と二つの皇統が交互に天皇を出すという「両統迭立(てつりつ)」の制がすでに100年近く行われていた。さらに大覚寺統が二流に分裂する様相を示しており、このままでは皇統が四分五裂する恐れもあった。後醍醐天皇は、ご自身の皇子である義良親王(次代の後村上天皇)を皇太子として、この悪例に終止符を打とうとした。

 そして、その次の段階として、国家を私物化していた幕府の打倒を目指されたのである。自由社版の「天皇親政」とは「天皇を国民統合の象徴とする統一国家の回復」と解すべきだろう。とすれば、後の明治維新で唱えられた「王政復古」と同じである。

 後醍醐天皇は幕府政治は否定したが、地方行政ではそれまでの国司・守護体制を継続した。これは中央から派遣された行政官である国司と、地方の治安維持を担う守護との体制が、統一国家にふさわしいと判断されたからであろう。

 ただし、従来は任地に赴かない守護も少なくなかったが、現地に赴任させて地方行政の実を挙げさせようとする努力もなされた。たとえば公家ながら武将としても優れた北畠顕家を陸奥に派遣し、同時に旧幕府勢力の根強い関東を背後から牽制させる、という現実的な配慮もなされている。

 統一国家による民政改善の例としては、飢饉の際に私領地の通行税を禁止して米を安く供給させるようにした。後の室町幕府の時代には、伊勢の参宮街道で社寺や豪族が18キロの間に60もの関所を設けて勝手に通行料を徴収していたという事実からも、統一的な国家行政が民生安定には不可欠であることが窺われる。


■7.「建武の新政」の挫折

 鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による「建武の新政」を、東書版は次のように記述する。

__________
 鎌倉幕府の滅亡で、天皇中心の新しい政治(建武の新政)が始まり、後醍醐天皇は武家の政治を否定し、公家(貴族)重視の政策を続けました。このため、武士たちの間に不満が高まり、足利尊氏が武家の復活を呼びかけ兵をあげると、新政は2年ほどでくずれました。[1,p70]
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「天皇中心の新しい政治」「武家の政治を否定」「公家(貴族)重視」というのは、以上見てきた通り、正確な表現ではない。

 自由社版は「建武の新政」と題して、以下のように書く。

__________
 後醍醐天皇は京都に戻ると、天皇親政を目標として、公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた。幕府滅亡の翌年の1334年に、年号を建武と改めたので、これを建武の新政(建武の中興)という。

 しかし、建武の新政は、武家社会の慣習を無視して領地争いに介入したり、貴族の慣例である世襲制を否定した人材登用を行ったりしたため、当初から政治への不満を生み出すことになった。

 そのようなときに、足利尊氏が武家政治を再興しようと兵をあげ、建武の新政はわずか2年あまりで崩れてしまった。[1,p93]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「貴族の慣例である世襲制を否定した人材登用」は、聖徳太子以来の理想追求の表れである。「武家社会の慣習を無視して領地争いに介入」と言うが、社会の平和と安定のためには領地争いを治める必要があり、国家統治として必要不可欠の行政であった。

 ただ幕府滅亡を機に多くの武家や寺社が所領拡大を図ろうと寄せた膨大な申請を、発足したばかりの政治機構では巧みに処理しきれなかったという事に過ぎない。

 大化の改新にしろ、明治維新にしろ、旧体制を倒してから新しい統治機構が固まるまで、2、30年を要している。旧体制の矛盾を改め、新体制が安定するまでには、そのくらいの時間は必要である。

 建武の中興がわずか2年で挫折したのは、足利尊氏という野心家が改革派の中に紛れ込んでいて、滑り出したばかりの新政を乗っ取ってしまったからだ。2年で挫折したからと言って、その理想が誤っていたということにはならないのである。


■8.「建武中興の理想は、明治維新という形で復活した」

 建武の中興は2年足らずで挫折したが、後醍醐天皇の理想に殉じた楠木正成の生き様は、清冽な地下水脈のように日本人の心の深奥を潤していった。

『大日本史』を著した水戸光圀(みつくに)は兵庫の湊川に「嗚呼(ああ)忠臣楠氏之墓」を建てた。その光圀の残した水戸学に学んだ吉田松陰、有馬正義(新七)、真木和泉守保臣など、幕末の志士の多くは楠木正成を敬慕し、後醍醐天皇が掲げた「王政復古」の理想こそ、日本のあるべき姿だと信じた。そこから明治維新が始まった。

 冒頭で紹介したように、明治初年にグリフィスから「尊敬する人物は?」と聞かれた人々はすべて楠木正成を挙げていた。この事実から、久保田収・皇學館大学教授は著書『建武中興』の中で次のように結論づけている。

__________
 ひとびとの心が楠公崇拝に帰一したときに、明治維新は成就したのである。挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活したというべきであろう。[4,p287]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(文責:伊勢雅臣)

__________
週刊メール入門講座「教育再生」http://bit.ly/118DokM

閉ざされたクラスルーム/密室の中の独裁者/学力崩壊が階級社会を招く/国語の地下水脈/人格を磨けば学力は伸びる/子供を伸ばす家庭教育/江戸日本はボランティア教育大国/国作りは人作り
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■リンク■

a. JOG(264) 楠木正成 〜 花は桜木、人は武士
 その純粋な生き様は、武士の理想像として、長く日本人の心に生きつづけた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog264.html

b. JOG(917) 歴史教科書読み比べ(23): 元寇 〜 鎌倉武士たちの祖国防衛
 フビライの日本侵略の野望を打ち砕いた時宗と鎌倉武士たち。
http://blog.jog-net.jp/201509/article_3.html

c. JOG(788) 歴史教科書読み比べ(8) 〜 聖徳太子の理想国家建設
 聖徳太子は人々の「和」による美しい国作りを目指した。
http://blog.jog-net.jp/201303/article_1.html

d. JOG(799) 歴史教科書読み比べ(9) 〜 大化の改新 権力闘争か、理想国家建設か
 聖徳太子の描いた理想国家を具現化しようとしたのが大化の改新だった。
http://blog.jog-net.jp/201305/article_4.html

e. JOG(818) 歴史教科書読み比べ(11) :天武・持統天皇の国づくり 〜 共同体国家「日本」の誕生
 聖徳太子の新政、大化の改新から続く国づくりが完成に近づいた。
http://blog.jog-net.jp/201310/article_1.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.五味文彦他『新しい社会 歴史』★、東京書籍、H27

2. 杉原誠四郎, 藤岡信勝他『市販本 新版 新しい歴史教科書』★★★★、自由社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237834/japanontheg01-22/

3.村尾次郎『民族の生命の流れ』★★★、日本教文社、S48

4. 久保田収『建武中興―後醍醐天皇の理想と忠臣たちの活躍』★★★、明成社、H16
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219288/japanontheg01-22/

■おたより

■麟パパさんより

 毎週、興味深く拝読させて頂いております。

 今回は楠木正成にまつわるお話ということもあり、思わずメールさせていただく次第です。

 奇しくも、この週末に5年生になる娘から「お父さんの尊敬する人物は誰?」と尋ねられ、「楠木正成だよ!」と思わず即答したばかりだけに、今回のお話の偶然にびっくりもしております。

 小学生の時に(少々ませていたのかもしれませんが)、吉川英治の「私本太平記」を読んだのが楠公との出会いでした。少数の軍勢ながら、その何十倍の幕府軍を知的な戦略、戦術で撃退する場面や後醍醐天皇に対する忠誠心にすっかり魅せられてしまいました。

 その後も楠公に関する書籍を読みたいと探したものですが、あまり多くなかった記憶があります。いずれは湊川にお参りに行きたいと思っていましたが、なかなかチャンスがなく、しかし、今から4年ほど前に、関西への出張を利用して、湊川神社に伺い、お参りをすることができました。

 神社境内には楠公の一生についての絵巻があり、それを一つ一つ拝見していき、最後の親子の別れのくだりではもう我慢ができず、嗚咽をあげてしまうほどでした。あのような体験は人生で初めてでした。

 資料館は私一人だけで独占状態だったこともあり、神社の方に念願のお参りができたことなどをお話して1時間以上じっくりと拝観させていただきました。

 私自身は右でも左でもないのですが、この楠公の生き様は日本人全ての人々、いや、世界の人々とシェアできればと思います。そうすれば、この殺伐とした世界も少しは変わるのではないかと。

 何だか、また湊川神社にお参りに行きたくなりました。近いうちにきっと!子供たちと一緒に。(リンクでご教示いただいたものも早速拝読させて頂きます。)

 最後になりますが、これからも日本人にとって忘れてはならない大切なお話の情報発信をお願い申し上げます。


■編集長・伊勢雅臣より

 思いの籠もったお便りをありがとうございました。各人なりに尊敬する人を持つことが、それぞれの幸せな生き方であり、そういう人が増えることで国も栄え、他の国民の幸せにもつながります。


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
後醍醐天皇って遺言で「何が何でも朝敵をぶっ殺してやる‼」って言って死んだんですよね。同時代を生きた光厳天皇の「立派な葬式もお墓も手を煩わせるからいらない。山の麓にでも埋めてくれ、草木が私の友となろう」って遺言の方が遥かにらしいものだと思うんですけど。南北朝時代を取り上げられる方って、あの時代は戦乱に翻弄されつつも国を思って生きた皇族の方々がたくさんいらした時代なのに、後醍醐天皇しか取り上げられないから何だかなー、って思います。まぁ、善悪はともかく苛烈に生きた人物のほうが面白いですからね。
南北朝好きな通りすがり
2015/11/22 10:49
後醍醐天皇の行った親政は画期的な面も多いのですが、いかんせん性急で且つ刷新的であった事が大きいでしょう。建武政権樹立以前から鎌倉政権への不満を露わにし、最末期には悪党の跋扈や叛乱鎮圧の遅れなどが目立ったことで、これに対応できる新機構が期待されたのは当然のことですが、余りにも側近(後醍醐天皇に近い公家・武士・僧侶ら)ばかりが功多く、それらに対する反発を抑える軍事力や行政機構を構築できなかった事が大きいでしょう。実際、元弘三年の6月の段階では全国の所領沙汰に関しては後醍醐天皇のもと一括する体制でしたが、次第に国司に権限がうつり、関東では煩雑な沙汰については現地での沙汰検断が認められています。さらに国司を介しての地方行政は受領の活動が活発になった9世紀以降、国衙を基盤とする地方政治は崩壊しており、後醍醐天皇はその点に疎く、地方においての権力を現地の武士らに取って代わられていきます。このように所領政策の立て直しが急務中の急務ということは正中の変以前から理解していたと考えられますが、自分の政治基盤の脆さを後醍醐天皇は最後までカバーできなかったと思われます。尊氏離叛の前後において、多くの武士層が彼に味方したのも当然んであり、南朝側についた勢力も南朝側によって所領を安堵された事が大きいと思われます。国文学的史料や、思想的背景を持つ資料を軸にして歴史を理解する方法はあまり推奨されるものではありません。久米邦武のように頭からは否定しませんが、同時代の編纂史料や文書史料も含まねば時代全体の意識を見ることはできないと思います。
いろはにほへと
2016/02/19 19:59

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