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zoom RSS No.910 歴史教科書読み比べ(22): 北条氏の仁政

<<   作成日時 : 2015/07/26 05:35   >>

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 北条氏は「道理」と「合議」に基づく政治により、安定した社会を生み出した。

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■1.「社会が安定したため,農業生産が高まりました」

 源頼朝の直系が滅びた後、鎌倉幕府は北条氏が執権となって支えていく。

 東京書籍版の歴史教科書は、「民衆の動き」と題した一節で、この時代の社会の発展をかなり好意的に描いている。

__________
 社会が安定したため,農業生産が高まりました。牛馬が利用され、鉄製の農具がいっそう普及し,草や木の灰が肥料として使われ,米の裏作に麦をつくる二毛作も行われるようIこなりました。開発も農民が中心になって行われるようになりました。

 農村には,農具をつくる鍛冶屋や染物を行う紺屋などの手工業者が住みつき,寺社の門前や交通の便利なところでは,定期市が開かれるようIごなりました。

 このように生活が向上するなかで,しだいに村を中心に,民衆の団結を強める動きが見られ,耕作する人の土地の権利も強化されていきました。[1,p55]
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「農業生産の高まり」と農民の「権利の強化」を重視するあたりは、マルクス主義的な唯物史観めいているが、経済史の記載としては妥当な所だろう。


■2.「社会の安定」をもたらしたのは、どんな政治だったのか?

 ただ、疑問なのは「社会が安定したため」という部分で、何がどうしたから社会が安定したのか、という記述がまるでない事だ。

 しかも、その前のページには「武士と地頭」と題した節で、次のような勢力争いが頻発したことを記している。

__________
 農民は年貢を荘園や公領の領主におさめていましたが、地頭となった武士が土地や農民を勝手に支配することが多く、地頭と領主との間には、争いがしばしばおこりました。[1,p54]
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 一方で地頭と領主との争いを説き、その後で、社会が安定して農業生産が高まったという史実を説く。階級闘争と経済発展を同時に説くので、何が歴史の真実だったのかが、よく理解できない。

 しかも、その次の「武士の生活」では、こう記述している。

__________
 武士は、つねに馬や弓矢の武芸によって心身を鍛えていました。「弓矢の道」や「もののふの道」などと呼ばれる、名を重んじ、恥を知る態度などの、武士らしい心構えが育って行きました。[1,p54]
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 結局、東書版は「社会の安定と農業生産の高まり」「地頭と領主の争い」「武士らしい心構え」の三点をバラバラに述べながらも、それらがどのように互いに関連しているのか、を全く説いていないので、いったいどんな時代だったのか、全体像が全く見えない記述となってしまっている。


■3.謡曲「鉢の木」の物語

 一方、自由社版の歴史教科書には、「農業生産の高まり」も「地頭と領主の争い」も出てこない。そのかわりに「武士のおこりと鎌倉幕府」という2ページのコラムで、特に鎌倉幕府と武士(御家人)が「御恩と奉公」の関係で結ばれていたとして、謡曲「鉢の木」の物語を紹介している。

 鎌倉武士の理想を説いた有名な物語なので、引用しておこう。

__________
 5代目執権・北条時頼が、身分を隠して諸国の様子を観察していた時のことです。上野国(こうづけのくに、群馬県)の佐野のあたりで突然の雪に降られ、近くの民家を訪ねました。その家は、暖をとる薪(まき)も食べ物もない貧しさでした。

 しかし、家の主人、佐野常世(さの・つねよ)は、時頼だとは知らぬまま、こころよく迎え入れました。常世は、見も知らぬ旅人を暖めるため、大切にしていた鉢植えの梅・松・桜を囲炉裏(いろり)にくべて精一杯もてなしました。

「ご覧のとおりの貧しさですが、私はかつてはこのあたりの領主でした。今は、領地を奪われ、この有様です。しかし、私は武士です。幕府に一大事があって、いざ鎌倉というときは、いつでも駆けつけられるように、馬と武具だけは手離しておりません。」

 鎌倉に帰った後、時頼は関東の御家人に緊急の招集命令を出しました。すると、常世は武具に身を固め、鎌倉に駆け参じてきました。時頼は、常世の奉公、忠誠心を誉め、領地を取り戻してやり、さらに「加賀梅田」「上野松井田」「越中桜井」を恩賞として授けました。[2,p85]
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 東書版の説く「武士らしい心構え」をより具体的に理解できる物語であり、これを知っておくことは、国民的教養として望ましい。

 しかし、こういう鎌倉武士たちがどんな政治をしたのか、という点の記述が歴史教科書としては欲しいところだ。


■4.北条泰時の仁政

 北条氏の執権政治を確立したのは、源頼朝の妻・政子の甥である北条泰時(やすとき)である。安田元久・学習院大学教授は『鎌倉武士』[3]の中で、次のように泰時を描写している。

__________
 泰時は、父義時の気質をうけついで、幼い時から非常に聡明であった。若いころから立派な見識を持ち、武士としての本分をわきまえ、また理非曲直をはっきりさせる人物であった。

 1201(建仁元)年秋、19歳の泰時が、将軍頼家(JOG注: 頼朝の嫡男、第2代将軍)の怒りを受けて、北条氏の領地である伊豆の北条で謹慎していた時のことである。その年この地方は不作のために、百姓たちが非常に疲れきっていた。なかには、領主から貸し付けてもらった米の返済に困って、逃亡しようとする者すらあった。

泰時は、そのような百姓たちを集めて、証文を焼きすて、返済の義務を免除したばかりでなく、かねて用意してあった酒や米をふるまった。そして、農民の喜ぶ様子を見てから、泰時は安心して鎌倉に帰ったという。[3,p85]
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 このような人物が40代にして第2代執権となったのである。

__________
 かれは政治の根本を「撫民」ということにおき、しばしばそのことを主張した。「撫民」とは、民衆に対する愛情にもとづく政治のことであったが、泰時のこの政治方針は、とくに飢饉や災害のときにおおいに発揮された。[3,p98]
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 たとえば、寛喜2(1230)年には初夏にも関東地方で雪が降り、秋にはしばしば暴風雨に襲われた。泰時は、租税の免除をし、また武家にも衣服の新調を禁じ、昼食を抜き、酒宴をとりやめるよう勧めた。

 翌年の大飢饉に際しては、富裕な人々に米を放出させ、返済能力のない農民には、自分が代わって返済してやる事までした。泰時の政治は、後の世までも優れた仁政と讃えられた。

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■5.「道理」による統治

 泰時が、こうした仁政の基盤として重視したのが、「道理」と「合議制」であった。「道理」に関しては、たとえば鎌倉時代に一般人にも広く読まれた仏教説話集「沙石(しゃせき)集」に、次のような逸話が収められている。[a]

 ある時、下総国(千葉県北部が主)の地頭と領家(荘園領主)との間で地代に関する争いが生じ、両者の話し合いでは決着がつかなかったので、鎌倉幕府に裁定が持ち込まれた。

 北条泰時が代官となって、両者とじっくり問答を行った際、領家が肝心の道理を述べた時、地頭は手をはたと打って、泰時の方に向かって「これは当方の負けなり」と言った。同席した一同はわっと笑い出したが、泰時はうち頷いて、笑わずに言った。

__________
 立派な負けっぷりである。泰時は長い間、代官として裁定を行ってきたが、あきらかに道理で負けていると思われる側でも、なおも負けじと主張を続ける事はあっても、自分から負けたと言う人はいなかった。

 相手の方に道理があると分かったら、ただちに負けを認めたのは、返す返す立派な態度である。正直な人柄が見て取れる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と、涙ぐんで褒めた。領家の方も、「今まで道理を理解していなかっただけで、故意ではない」として、6年分の未納の地代を3年にまけてくれた。沙石集の作者は次のように、結論つけている。

__________
 されば、人は道理を知りて、正直なるべき物なり。咎を犯したる者も道理を知りて、我が僻事(ひがごと、間違い)と思いて正直に咎(とが)をあらわし、おそれつつしめば、その咎ゆるさるる事なり。
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 世の中には、心ある人間なら誰でも認める道理があるのであり、それに基づいて社会を統治しようというのが泰時の考えであった。富や権力に負けることなく、あくまで道理を通して生きる所に、武士の本分があった。


■6.「御成敗式目」

 道理による政治を推し進めるために泰時が定めたのが「御成敗式目」であった。これについて、自由社版は以下のように取り上げている。

__________
御成敗式目(ごせいばいしきもく) 執権となった北条泰時は、1232(貞永元)年、武家社会の慣習に基づいて、初めて武家の独自の法律である御成敗式目(貞永式目)を定めた。これは、御家人に権利や義務、裁判の基準を分かりやすく示したもので、その後の武士の法律の手本になった。[2,p83]
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 東書版はやや短いが大同小異の表現である。しかし、これだけでは御成敗式目の画期的な意義は伝わらない。


■7.「道理」に基づく政治

 式目の末尾には、次のような一節があり、この式目が「道理」に基づく政治を目指したものであることが明らかにされている。

__________
 およそ評定の間、理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、詞(ことば)を出すべきなり。

(裁判の場にあっては決して依怙贔屓(えこひいき)なく、専ら道理に基づいて、傍の目、上なる権力者の意嚮(いこう)を恐れることなく信ずる所を言え)
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 鎌倉時代は「武士が主君から領地を与えられて所有する」という形での封建社会が発達した。「封建社会」というと、いかにも前近代的・非合理的に聞こえるが、土地の私有を制度化するには、所有権を守るための法と裁判の整備が必要であり、これらは近代社会発展のための不可欠の基盤なのである。

 現代においても近代的な法治主義がきちんと定着しているのは、封建制度を経験した西洋と日本だけであることを考えれば、この事は明らかだろう。

 8百年近くも前に、泰時が道理に基づく政治、法、裁判の仕組みを作った史実の重要性はここにある。


■8.日本古来の伝統に基づく見識ある政治

 道理を明らかにするには、複数の人々による議論が必要だと泰時は考えたようだ。独裁制では自らの過ちに気がつかない恐れが出てくる。

 泰時は執権に就くと直ちに、おじの時房を補佐役とした。この地位は、公文書に執権と共に署名を加えることから、「連署(れんしょ)」と呼ばれた。これにより、執権の独断に対するブレーキ役を果たせる。

 嘉禄(かろく)元(1225)年には、政治的能力のある有力者11名を評定衆(ひょうじょうしゅう)に任命した。執権・連署とともに政治や訴訟に関する評定を行う。重要な政務や、裁判の最終的な決定などは、すべて合議によって執り行われるようになった。『御成敗式目』も、評定衆によって起草されたものだ。

 我が国には、神話時代の「神集ひ」から聖徳太子の十七条憲法の「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)」と、衆議公論を尊ぶ伝統が根強いが[c]、それを政治制度として定着させたのが泰時であった。この伝統があったればこそ、明治以降の議会制民主主義の導入もスムーズにいったのである。[b]

『御成敗式目』の全51条は、憲法十七条を天・地・人で3倍した数字と言われている。泰時以下、鎌倉幕府の評定衆は、聖徳太子など日本古来からの伝統的思想を踏まえた見識を持っていたと思われる。とすれば、その「撫民」は、皇室の民の安寧を祈る伝統精神を現実政治に生かそうとしたものだろう。

「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があったことを、我が国の中学生には知っておいて貰いたいものだ。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(752) 日本における道理の伝統
 布教のためにやってきたフランシスコ・ザビエルは、キリスト教の不合理な面をつく日本人に悩まされた。
http://blog.jog-net.jp/201206/article_2.html

b. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog082.html

c. JOG(287) 大御宝の理想を求めて 〜 国柄に根ざした人権思想を
 いかがわしい「人権」派から、「人権」の理想を取り戻すには。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog287.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

2.藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

3. 安田元久『日本の歴史文庫(7) 鎌倉武士』★★★、講談社

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