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zoom RSS No.897 昭和天皇と白川義則大将 〜 いくさとどめしいさを

<<   作成日時 : 2015/04/26 08:11   >>

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「白川は戦争を止めます。停戦命令を出します」

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■1.「爆弾が投げ込まれたのは分かっていたが」

 昭和7(1932)年4月29日、天長節の式典が上海の虹口公園でも挙行されていた。この年、1月29日に第一次上海事変が起こり、白川義則大将率いる上海派遣軍が国民政府軍を撃退して、5月5日には国民政府との停戦協定を結ぶ手はずとなっていた。

 朝からの曇天は細雨となったが、国歌斉唱では公園を埋めた群衆も壇上の代表たちも粛然と声をあげた。その時に後方からアルミ製の水筒が壇上に投げ込まれ、重光葵大使の足元に落ちた。

__________
 爆弾が投げ込まれたのは分かっていたが、国歌斉唱の最中に動くのは不敬であると考え動かなかった。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と、重光は日記に書いている。動かなかったのは、壇上の野村司令官、白川大将なども同じだった。火花と爆煙が式台を覆った。

 水筒には爆薬とともに鉄片が練り込まれていた。重光公使は左右の下肢に爆傷、全身に多数の弾片傷を受けたが、生命はとりとめた。この後は隻脚の外交官として、昭和天皇のアジア諸国との平和・親善の御心を体して尽力した。[a,b]

 白川大将も全身に破片を受けたが、顔面に流れる血をそのままに、足下に落ちた軍帽をかぶり、駆け寄った憲兵に「犯人を捕らえよ」と命じた。

 犯人の朝鮮人・尹奉吉は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後で自殺を図ろうとした所を検挙された。


■2.第一次上海事変

 この前年、昭和6(1931)年に満洲事変が起こり、関東軍は半年で満洲全土を占領した。満洲はもともと満洲族の土地であり、昭和7(1932)年、関東軍により、満洲族の王朝であった清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)が執政に迎えられて、満洲国が建国された。

 この動きに対して、蒋介石率いる国民政府は日貨排斥運動を全国的に扇動した[c]。現代においても数年前に中国共産党が反日暴動を扇動したが、それと同様である。

 さらに、国民政府は日本を非難して、国際連盟理事会に提訴した。それに基づき、国際連盟はイギリス人リットンを団長とする調査団を3月に満洲に派遣していた。

 満洲事変以来、昭和天皇は国の行く末を心配されて、眠れない夜が続いていた。ひとり政務室のなかをぐるぐる歩き回り、大きな声で独り言を言われる。そばに侍る侍従たちは、その声を聞き、暗澹たる思いであった。

 昭和7(1932)年1月には、上海郊外に国民政府の十九路軍約3万人が押し寄せた。上海の租界には、英米仏伊の居留民とそれを守るための各国軍が駐留していた。日本人も約2万7千人の居留民がおり、海軍陸戦隊1千人を駐留させていた。日本を含む列国は租界内を共同して警護する事を決めた。

 1月28日午後、日本の警備地区が十九路軍の射撃を受け、90余名の死傷者が出た。軍事衝突の発生を受けて、日本側、国民政府側とも援軍を送った。日本側は更なる軍事衝突を避けるために、国民政府軍に対し、列国租界から20キロ撤退することを要求したが、十九路軍はこれを拒否、2月20日に日本軍は総攻撃を開始して、激烈な戦闘が始まった。

 第一次上海事変の始まりである。


■3.「お前ならば守ってくれるだろう」

 2月19日には犬養毅首相は上海には増兵しない方針を打ち出し、昭和天皇は大変、喜ばれたが、戦火は収まらず、やむなく2個師団の増派が決定され、派遣軍司令官に元陸相の白川義則大将が選ばれた。

 事変の拡大を憂えられていた昭和天皇は、国際連盟が3月3日に総会を開くと決めたので、「その日までに上海の陸軍をひきあげねばならぬ」と侍従武官長に厳命されていた。

 白川大将の親補式が2月25日正午に執り行われた。昭和天皇は特に「条約尊重、列国強調を旨とせよ」と指示され、さらにこう言われた。

__________
 それからもう一つ頼みがある。上海から中国軍を撃退したら、決して長追いしてはならない。計3個師団もの大軍を動かすのは戦争のためではなく、治安のためであるということを忘れないでほしい。とくに陸軍の一部には、これを好機に南京まで攻め込もうとする機運があると聞いている。[2,p30]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「存じております」と答えた白川大将に、陛下が重ねて言われた。

__________
 私はこれまでいくたびか裏切られた。お前ならば守ってくれるだろうと思っている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 白川大将は、このお言葉にはらはらと涙をこぼし、聖旨をかならず守ることを誓った。

 翌2月26日、白川大将は東京を発った。3月3日までには、あと6日しかない。

画像


■4.白川大将と重光公使

 白川大将率いる上海派遣軍が3月1日に十九路軍の背後を突く形で上陸すると、敵は退却を開始した。

 参謀本部次長からは「あくまで敵を急迫し、徹底的打撃を与えることを期待す」という要請が届いており、停戦の雰囲気など毫(ごう)も見えなかった。

 白川大将は重光公使と会うと、余人を遠ざけて、こう伝えた。

__________
 自分が出発前に天皇陛下に拝謁したところ、陛下は自分に対して、事態は重大であるから、お前はなるべく早く軍の目的を達して、遅滞なく軍を引き揚げて帰って来いと申された。この事を貴下の耳に入れておきたい。[a]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 重光公使自身も、1月に帰国して中国の状況について上奏した際に、やはり陛下は「上海方面においても、和平を旨とするよう」と言われていた。

 和平を願われる陛下の大御心をいかに実現するか、二人の志は一致していた。


■5.「白川は戦争を止めます。停戦命令を出します」

 3月3日に現地会議が開かれた。午後1時、ジュネーブでは国際連盟総会が開かれる日の朝である。重光は姿勢を正して、こう述べた。

__________
 いまわれわれは上海における軍と外交の最高責任者として、国家の大事を相談しているわけです。その結果は日本の国運に少なからず影響するでありましょう。とくに東京の宮中においては、さぞかし天皇陛下はこのことについて御心配をされておられることと思います。恐懼に耐えません。[a]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この発言に白川大将は胸を打たれた様子で、しばしの熟慮の後、いきなり立ち上がって言明した。「白川は戦争を止めます。停戦命令を出します」

 その口調ははるか東京の陛下に奏上するかのように、聴く者に荘重に響いたという。重光公使は「独り心に期するところありしものの如く、遂に参謀等の反対を押し切り停戦を断行した」と記録に残している。[3]

 陸軍中央からは追撃の指令が次々と届けられていたが、司令官の権限をもって、停戦を断行した。陸軍は激怒した。

 午後2時に出された停戦命令により、ジュネーブの国際連盟総会の険悪な空気が一挙に好転し、日本は見直されて、日中両国に停戦協議の開始を要請するだけで終わった。

 陛下は心から喜ばれて、鈴木貫太郎侍従長に何度も言われた。「本当に白川はよくやった」と。


■6.「よかったね。ほんとうによかった」

 停戦交渉は、英米仏伊の4カ国公使の斡旋で、重光公使と国民政府外交部で進められ、ほとんど締結寸前まで漕ぎつけていた。その矢先に起こったのが、冒頭の爆弾テロであった。

 犯人の尹奉吉は、上海における亡命政権である大韓民国臨時政府の首班・金九の指示でテロを行った。そして、この組織は国民政府から資金援助を受けていた。

 しかし、この爆弾テロは、日本と国民政府の停戦交渉がまとまりかけた時期に仕掛けており、日中の戦闘拡大を狙ったものと考えるべきだろう。

 実は十九路軍は国民党軍を装いながら、実質的には中国共産党が扇動している、と日本側は見ていた。[d] 日本と国民政府を戦わせて共倒れをさせることが、モスクワの指示を受けた中国共産党の戦略であった。中国共産党は国民党政府内にも多くのスパイを送り込んでおり、十九路軍がその指示で動いていたとしても不思議ではない。

 事件をきっかけに、上海居留邦人の不安がかき立てられ、陸軍の強行派が勢いを得るのでは、と天皇も心配されたが、入院中の重光公使が苦痛に耐えながら、停戦交渉を進め、5月5日に無事、調印に漕ぎ着けた。

 5月7日、伏見宮軍令部長と真崎参謀次長が停戦協定の成立を上奏すると、天皇は晴れ晴れとした笑顔で、奈良武官長にいった。「よかったね。ほんとうによかった」

 奈良武官長は、これまでの天皇の心配ぶりを知っていただけに、これでご安心いただける、とホッとした。


■7.「有難い、まことに有り難い」

 白川大将は病院にて瀕死の床についていいたが、5月20日には周囲にこう指示した。

__________
 今度くらい陸海軍の共同作業がうまく行ったことはない。このことは、自分が奏上することが出来なくても、陛下の上聞に達するように。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 5月23日、陛下から白川大将に勅語が電報で届けられた。

__________
 卿、上海派遣軍司令官トシテ異域ニ在リ、精励克(よ)ク其任務ヲ達成シテ、威武ヲ宣揚シ、国際ノ信義ヲ敦(あつ)クセリ。朕(ちん)深ク其労ヲ嘉(よみ)ス
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 病床の白川は息絶え絶えとなりながらも「有難い、まことに有り難い」と幾度もつぶやいた。

 しかし、治療の甲斐もなく、両手を胸に、東方を拝したまま、5月26日に絶命した。

 翌昭和8年4月末、白川大将の遺族宅に鈴木侍従長から「明日お届けしたいものがありますから在宅願います」と電話があった。当時大学生だった長男の白川義正氏が、入院中の母に代わって、学生服姿で待っていると、侍従長が一人で来訪した。

__________
 靖国神社を陛下が参拝されたおり、故白川大将を思い出されて歌を詠まれた。その歌を持参しました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と、侍従長は短冊に墨書された御製(ぎょせい、天皇のお歌)を手渡した。

 をとめらが雛(ひな)祭る日にたたかひをとどめしいさをおもひでにけり

「娘たちがお雛様を祭ってお祝いをする日に戦闘を止めた功績が思い出された」という意味である。

 天皇が特定の個人に御製を贈るのは、きわめて異例だ。それだけに、昭和天皇の故白川大将への御思いの深さが窺われる。


■8.『昭和の日』に思い出したいこと

 こうして白川大将の決断により、第一次上海事変は決着した。日中の対決はしばし収まったが、再び戦火が燃え広がったのは、それから4年余後の昭和12(1937)年のことだった。

 日本と国民政府を戦わせて共倒れにさせ、共産革命を実現しようとする中国共産党の魔の手により、同年7月7日に日本軍が銃撃を受けて始まった盧溝橋事件、7月29日に在留邦人260名が惨殺された通州事件、8月11日、日本人租界が包囲されて始まった第2次上海事変、と矢継ぎ早に挑発が繰り返された。[d]

 こうして昭和天皇の御祈りもむなしく、日本は中国大陸での戦争に引きずり込まれていったのである。

 第一次上海事変を小火で収めることが出来たのは、昭和天皇の平和への御心を体した白川大将の軍事統率力と重光公使の外交交渉力のお陰だった。「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ために設けられた『昭和の日』には、この逸話を思い返してみたい。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(519) 重光葵(上) 〜 大御心を体した外交官
 昭和天皇の大御心を体して、重光葵は中国・アジア諸国との親善友好と独立支援の外交を展開した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog519.html

b. JOG(520) 重光葵(下) 〜 大御心を体した外交官
 終戦工作、降伏文書調印、占領軍との交渉、戦犯裁判と、重光の苦闘は続く。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog520.html

c. JOG(668)「日貨排斥」の歴史は繰り返す
 貿易を通じた中国の嫌がらせに、戦前の日本人も憤激していた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h22/jog668.html

d. JOG(446) スターリンと毛沢東が仕組んだ日中戦争
 スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog446.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 福富健一『魂の外交官 重光葵に帰れ』、日本の息吹、H23.12

2. 文藝春秋(編)『大いなる昭和―昭和天皇と日本人』★★、文春文庫、H8
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4167217554/japanontheg01-22/

3. 占部賢志「『桃の節句』の終戦秘話 昭和天皇と白川義則大将」、致知、H24.4

4. Wikipedia 「第一次上海事変」
http://bit.ly/1HEUhHv



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