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zoom RSS No.891 国史百景(12): 職人たちの新宮殿造営

<<   作成日時 : 2015/03/14 22:27   >>

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「国民の手で後世に残す宮殿をつくりあげたい」という思いで職人たちが作りあげた「真っ正直な、ごまかしのない姿」

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■1.「真っ正直な、ごまかしのない姿」

 新年や天皇誕生日の一般参賀で両陛下を中心として皇族方がご挨拶されるベランダのある建物が「長和殿」である。

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 その他に、外国大使の信任状捧呈式や歌会始めの儀など主要行事に使われる「正殿」、海外からの賓客との晩餐会などが開かれる「豊明殿」、両陛下の執務室のある「表御座所」など合計7つの棟からなるのが新宮殿だ。

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 この新宮殿が昭和43(1968)年に完成した時、拝観した文芸評論家・小林秀雄は皇居造営部長・高尾亮一にこう語っている。

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 ぼくはあの建築を見ていて、すぐピーンと来ましたね。この真っ正直な、ごまかしのない姿は、現代のインテリの議論なぞとはまったく関係がない、ということがね。

あなたの指揮のもので宮殿をだまってつくった人たちはみんな本当の意味の職人でしょう。インテリなんていうつまらん人種は一人もいなかったでしょう。新宮殿の造営は戦後の大事件です。インテリが何の興味も持たなかった大事件ですよ。・・・

 腕に自信のある人だけがあつまって、腕によりを掛けて作ったという静かな感銘を受けたな。・・・職人さんたちが、これほど存分に腕がふるえたことはなかったでしょう。
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 現実を見ずに机上の空論を振り回すインテリを軽蔑し、自らの腕で現実と格闘する職人を敬愛した小林秀雄は、新宮殿の「真っ正直な、ごまかしのない姿」に職人たちの思いと腕を見たのである。


■2.「国民自身の手で宮殿を再建しよう」という運動

 明治21(1888)年に創建されたかつての宮殿は、昭和20(1945)年5月26日未明の大空襲によって、霞ヶ関一帯の火災から飛び火して、炎上消失した。

 そのため、宮内庁庁舎の事務室の一部を仮の宮殿とする一方、両陛下は吹上御苑の中にある「お文庫」と呼ばれた地上地下各一階の建物に仮住まいされた。

 防弾のための分厚いコンクリート屋根に覆われ、周囲は爆風を避けるための太い柱に囲まれていたため、採光や風通しが悪く、冬は底冷えがひどく、夏には壁一面に湿気で水滴がつく、という有様だった。

 見かねた宮内庁の役人が、陛下のご健康に障りがあるのでご新居建設を、と奏上したが、国民の住宅建設が立ち後れている時期に、自分のみが新居を構えられようか、と昭和天皇は頑として受け付けられなかった。

 しかし、終戦後10年以上も経って、経済も急速に復興しつつある中で、宮殿の再建を、という声が各方面から寄せられ、国庫から費用が出せないのなら自分たちでと、国民の中から募金運動が起きた。こうした声が政府を動かし、昭和35年から国費に国民からの寄付金も加えて、造営が始まった。


■3.国民の手で後世に残す宮殿をつくりあげたい

 宮内庁内に皇居造営部が設置され、部長として高尾亮一が就任した。皇居造営部で新宮殿の略設計試案が作成され、これを丹下健三など当代一流の建築家10名に検討して貰って、その結果をもとに詳細設計が進められた。

 また施工業者の選定では、大蔵省は会計法の定める競争入札をすべきと主張したが、高尾は「この国の代表的建設業者が共同して事に当たることが望ましい」として、最終的には大林、鹿島、清水、大成、竹中の五社が「新宮殿造営工事共同企業体」を結成して、工事を担当することとなった。

 現場には共同企業体事務所が設立され、各社は競うように腕の立つ人材を送り込んだ。高尾は「やはり、国民の手で後世に残す宮殿をつくりあげたいという願望が、このような<一つの旗の下に>を実現させたのだと思う」と述懐している。

 また、工事施工にも、共同企業体がそれぞれの分野での一流業者を選んだ。「宮殿工事の各部門に有数の業者が綺羅星(きらぼし)のように参加しているのは、このような背景があるためである」と高尾は述べている。

 時まさに高度経済成長期、各社が激烈な競争をしている最中だったが、こと新宮殿建設にかけては、日本を代表する建設会社、施工業者が心を一つにして、取り組んでいたのである。


■4.「あっしですか、あっしは目頭がジーンとしました」

 起工式は昭和39(1964)年6月29日に行われた。工事期間中、高尾はしばしば昭和天皇に進捗状況を奏上したが、そのたびに「工事上の災害、ことに人身事故を起こさないように」とのお言葉を賜った。このご指示に高尾と工事関係者は万全の対策を講じた。

 たとえば大屋根での作業の際は軒周りに通路を巡らせ、さらにその外側に鉄柵をとりつけた。これなら大屋根での作業中に足を滑らせても、転落は防げる。こうした努力のお陰で、4年4ヶ月、延べ72万人におよぶ工事期間に事故は一件もなかった。

 昭和天皇はご自身でも、たびたび工事現場を視察された。それも作業の邪魔をしないよう、日曜日を選ばれて。その度にお供をした高尾はこう語る。

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 人気(ひとけ)のない現場で、蜘蛛の巣のような障害物の下をくぐり、ぐらぐら揺れる足場を渡られながら、こまかく工事の進行状況や詳細な説明をお求めになる。それはじつにご熱心なものだった。
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 こうした昭和天皇のご視察は次第に工事関係者にも知られて、現場で作業者が働いている姿もぜひご覧賜りたいとの熱心な希望が寄せられた。作業の迷惑になっては、と遠慮されていた陛下も、職人たちの願いに応えてお出ましになった。

 当時27歳で、鳶(とび)職世話役をしていた野竹辰弥は、昭和天皇が鳶職人たちのもとに来られて、「作業には十分に気をつけるように」というお言葉を賜った時のことをこう回想している。

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 トビの男は感激家ぞろいですから、・・・政さん、信さんなど、それで水っぱななどすすっちゃいましてね・・・。あっしですか、あっしは目頭がジーンとしました。

これまでいろいろな工事やりましたが、注文主の社長がでてきて作業員に声をかけたことなんて一度もありませんや。それが天皇陛下が、われわれみたいな職人のことを心配して、お言葉をかけてくださったんですから、、、
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 世話役として年上の職人たちを束ねるのは、若い野竹には気が重い仕事だった。しかし、陛下のお言葉が雰囲気を一変させた。

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 それもこれも、“お言葉”でみなの気持がひとつになりましてね。・・・事故ひとつなく工事をおえたのは、私の腕というよりこの“お言葉”のためです。
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■5.「新宮殿に納める品は、日本人の創造した椅子にしたい」

 宮殿に用いる木材には2年4ヶ月をかけて、北海道から九州まで全国の調査をもとに選りすぐった良材が集められた。

 たとえば、杉は熊本県人吉の山上にある神社の参道脇に立つ樹齢8百年を超える古木が使われた。製材してみると、「美しく乱れた木目があたかも越前和紙の墨流しを見るように現れた」と言う。

 豊明殿の長押(なげし、柱どうしをつなぐ横材)には宮崎県えびの高原の栂(つが)が用いられた。材質は堅牢で年を経るにしたがって木目の美しさが際立っていく。

 椅子には丈夫な栗が使われたが、なかなか最良の栗の木が見つからなかったが、結局は九州高千穂のものが使われた。それを使って漆工の名人・黒田辰秋が「新宮殿に納める品は、日本人の創造した椅子にしたい」と制作に当たった。

 白木に生漆を染みこませ、木目に漆をつめ、その上で砥石で磨いて再び漆を塗る。この工程を何度も繰り返し、仕上げは朱溜(しゅだめ)と呼ばれる漆をかけて完成する。「2千年たっても色が変わらないのが本当の漆工です。これは、そんな作品です」と黒田は感無量の思いを語る。

 石材の選定にも苦心があった。昭和29(1954)年正月の一般参賀の際に、人並みが折り重なって転倒負傷するという事故に心を痛められていた昭和天皇は、庭に敷きつめる石は、ぜひ滑りにくいものを選定して貰いたい、と指示をされた。

 高尾らが詳細な調査を行い、香川県高松市に近い石山の安石岩が採用された。滑りにくい上に、淡い黄色と青の二色が優しい雰囲気を醸し出した。


■6.純朴な農村の女たちのたゆみない作業

 饗宴や夜会が催される豊明殿と長和殿「春秋の間」の絨毯は、杉山寧(やすし)画伯の原画により、それぞれサーモンピンクとあやめ色の華やかな抽象図形が描かれた。

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 その原画を絨毯として織り上げていったのは、熟達した農家の主婦たちだった。豊明殿は山形県山辺、「春秋の間」は兵庫県網野の主婦たちが、手織りで織り上げた。現地で、手織りの現場を視察した高尾は次のように語っている。

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 織子たちは織機の台上に並んで腰をかけ、速度をあわせて縦糸に糸を結び、房にして先端を切りそろえる。手先の速さは驚くべきもので、旁に立つ私などの目には、ただ手が上下しているだけのように見える。房を切る刃物を研ぐのに、専属の男が一人、終日かかりきりだと聞いた。

・・・純朴な農村の女たちのたゆみない作業がつづいて、およそ一年有余。夢の絨毯はようやく現実のものとなった。
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■7.海国日本と永遠の生命感を象徴する“波と岩”

 宮殿の内部を飾る絵画や工芸作品には、現代日本を代表する芸術家たちが腕を振るった。二重橋に近い南車寄から長和殿に入り、階段を上がった所にある大壁画は東山魁夷(ひがしやま・かいい)の作品である。高尾は東山にこう依頼した。

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 この場所は、外国からのお客様が必ずお通りになります。その方々がここの壁画に目をとめて、日本へ来たという実感を抱かれる。そんな図柄が望ましいと思います。
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 東山は一年ほど思案した挙げ句、「やっと海国日本と永遠の生命感を象徴する意味をこめ“波と岩”を主題にすることにきめました」 そして全国の海岸を行脚し、数多くのスケッチを重ねた。その中から一枚を選び出し、それを横幅15メートル、高さ5メートルに及ぶ巨大絵画として描く。

 これまでのアトリエは狭くて制作が不可能なため、自宅の庭に仮設アトリエを建てた。高さ5メートルもの絵を描くために、昇降自在のクレーンを設置し、空調設備も設置した。

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 一番の懸念は失火だった。高尾は所管の消防署長に面会して、警備をお願いした。署長は事の重大さから、署と直結した非常ベルを設置し、署員のパトロールまで手配して、万全を期した。

 かくて完成した大壁画は、朝日の陽光のもと、海面から突き出た岩礁に大波が打ち寄せるという清新な風景を現し、「朝明の潮」と名付けられた。

 壁画が新宮殿に飾られた時、東山はこんな感想を漏らしている。
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 雄大な規模と簡潔な構成をもつ新宮殿のお部屋に運ばれ、壁に取り付けられた時、この壁画は、私のアトリエで近い距離からのみ眺めていた時よりも、構図も色彩もいかされて見えた。このお部屋を壁画に因んで「波の間」と名付けられたことも、恐れ多いことと思われる。
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■8.「真っ正直な、ごまかしのない姿」

 冒頭に登場した小林秀雄は、こうも言っている。

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 あの宮殿の姿ですね、あれは大変純粋な感じで、宮殿をつくるという日本の建築家のモチーフの純粋性を、そのままあらわしているといった感じがしましたがね。・・・あらゆる要素が建築の姿をつくるために協力している。・・・
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「モチーフ」とは、大和言葉で言えば「思い」である。その純粋性とは、高尾の言う「国民の手で後世に残す宮殿をつくりあげたい」ということであろう。その思いを共有して「一つの旗の下に」建築家、鳶職人、農家の織子、画家、漆工まで、現代日本の一流の職人たちが完成したのが新宮殿だった。

 小林秀雄は宮殿の「真っ正直な、ごまかしのない姿」から、それを作り上げた人々の純粋な思いを感じとった。それはそのまま日本人が美徳とする「真っ正直な、ごまかしのない」姿勢の表れである。

 宮殿は我が国の「客間」である。多くの海外からの賓客は新宮殿で迎えられて、その「真っ正直な、ごまかしのない」姿を感じとるだろう。

 我々一般国民も、新年や天皇誕生日の一般参賀、修学旅行などでの一般参観、皇居内の勤労奉仕などで、宮殿を拝観できる[2]。そして宮殿の「真っ正直な、ごまかしのない姿」から、我が先人たちの思いを受け継ぎたいものだ。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(536) 若者たちの職人道
 一人前の職人を目指して、若者たちが様々な職場で仕事に打ち込んでいる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/jog536.html

b. JOG(307) 伝統技術が未来を開く
 数千年に渡って蓄えられてきた日本の伝統技術が、最先端の現代技術に生かされ、明日を開きつつある。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog307.html

c. JOG(867) 「小さな世界一企業」一千社
 我が国には世界トップシェア、世界トップ技術を誇る中小企業が千社以上ある。
http://blog.jog-net.jp/201409/article_8.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 占部賢志『私の日本史教室 甦る歴史のいのち』★★★、明成社、H26
http://bit.ly/1Anturf

2.宮内庁ホームページ「参賀・参観・申込」
http://www.kunaicho.go.jp/event/


■おたより

■英一さんより

 今回の「職人たちの新宮殿造営」を読んで仁徳天皇の逸話「炊煙上がる、民の竈は賑わいにけり」を思い出しました。

 昭和天皇は「現代の仁徳天皇」であり、「陋屋(ろうおく、ボロ家)弊衣(へいい、粗末な服)、赤子を富ましむ。子の富みて父の貧しき、此の理なし。」(ボロ家に住み、粗末な服を着ることで、子どもを富ます。子どもが富めば、父親が貧しいということはありえない)

 新宮殿造営は高度経済成長でまさに竈(かまど)が賑わってきた民の御恩返しとでも言いましょうか、直接関わっていない我々であっても造営に関与した職人さんたちの意気込みからそれを感じます。

 おかげで緩んできた涙腺が益々緩んできました^^

■編集長・伊勢雅臣より

 仁徳天皇と昭和天皇は1500年ほども時代が隔たっていますが、同じ精神をもたれているのですね。

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No.891 国史百景(12): 職人たちの新宮殿造営 国際派日本人養成講座/BIGLOBEウェブリブログ
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