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zoom RSS No.886 歴史教科書読み比べ(19):保元の乱と乱世の始まり

<<   作成日時 : 2015/02/08 08:40   >>

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 上皇と天皇が争った保元の乱が、乱世の始まりだった。

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■1.「武士の登場」

 自由社版の中学歴史教科書は、「武士の登場」という節で次のように解説している。

__________
 9〜10世紀になると、私有地である荘園が広がって、国司の権限が及ばなくなった。都でも地方でも、盗賊が出没し、治安が乱れた。

 朝廷や中央の貴族たちは、武芸を職業とする者をやとい、宮中や貴族の護衛をさせた。また、地方でも、国司として赴任しそのまま住み着いた一族や、地元の豪族の中に、土地を守るためにみずから集団で武装する者があらわれた。こうして、武士が登場した。[1,p74]
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 東京書籍版も、やや短いながら同様の記述をしており、それほどの違いはない。ただ両書の共通点は、「武士の登場」という現象を説明しているだけで、それが国史と国柄の上で、どういう意味を持つのかについて、触れていない点だ。

 たとえば、中国や朝鮮では戦さで戦う武人は存在したが、日本の武士のように国家の統治階級とはならなかった。武士の登場は、日本が中国、朝鮮とは、決定的に違う道を歩み始めた事を示す。

 逆に、日本の封建制はヨーロッパに近い。封建制は、各領主に土地の支配権を認めることで、個人の権利や法の支配という近代国家の基礎を築いた、と言われている。

 日本とヨーロッパで近代国家が成立し、中国や朝鮮では現代でも個人の権利や法の支配という近代国家の基礎が確立できていないのは、この歴史の違いによる、と考えられる。[a]

「武士の登場」を語るなら、こういう処まで踏み込んで語る事で、我が国の国柄を明らかにして欲しい。


■2.ヨーロッパの封建制はゲルマン民族への選手交代から

 日本とヨーロッパの封建制は似ているが、違いもあり、そこにも我が国らしい国柄が見てとれる。上横手雅敬・京都大学教授は、次のような興味深い指摘をしている。

__________
 日本封建制成立の特色は、律令国家という集権国家が、おとろえながらも、その支配形態の修正によって、根強い勢力を持続していたことである。鎌倉幕府の成立について見ても、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命されたり、守護・地頭設置を承認されたりするなど、封建制の成立にあたって、律令国家の公権をゆだねられることが、必須の条件となっている。

 一方、ヨーロッパでは、封建制はゲルマンの氏族制社会という未熟な社会体制を母体として成立した。もちろん、ローマ帝国との接触は、封建制成立の重要な契機とはなっているが、わが律令国家ほどの決定的な影響力を持っていない。[2,p9]
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 ヨーロッパの封建制は、ゲルマン民族がローマ帝国を滅ぼし、各地に割拠して始めたものである。封建制を担った騎士たちは、もとはと言えばローマ帝国を攻撃したゲルマン民族の戦士であったり、逆にローマ帝国に協力した部族や傭兵であった。

 彼らはラテン語、キリスト教、ローマ法制などローマ帝国の先進文明には学んでいるが、あくまで異民族であった。古代帝政から中世の封建制への過程で、ゲルマン民族への選手交代があったのである。


■3.国家の中から成長した日本の封建制

 それに比べて、日本の武士は国家の中から成長した。武士の中で中心的な勢力となったのが平氏と源氏だが、両方とも皇室の子孫である、という点が権威の源泉だった。平氏は第50代桓武天皇を祖としており、源氏は第52代嵯峨天皇の血を引いていた。

 また武士の長たる「将軍」は、「征夷大将軍」という朝廷から与えられる官位の一つであり、たとえば、本シリーズで登場した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は桓武天皇より、東北地方の蝦夷を帰順させる為に征夷大将軍に任じられている。[b]

 このあたりを自由社版は「第2章のまとめ 中世とはどんな時代か」の中で、次のような姉妹の対話を通じて紹介している。

__________
妹 中世には、天皇は結局どういう立場にあったのかしら?

姉 源平が武士の棟梁となったのは、それぞれが天皇の末裔だったからよ。天皇が政治の表舞台から退いても、なお影響力はつづいている。将軍を任命するのは天皇だしね。[1,p103]
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「天皇の影響力はつづいている」という点を、「国家統治の権力は公家から武士へと移ったが、その統治を正当化する権威は天皇が維持していた」と理解すれば、より深く日本の国柄が理解できるだろう。権力と権威の分離という我が国の叡智に基づく政治構造は、封建時代にも健在だった。

 しかし、貴族に替わって武士が新しい統治機構を作りあげるには、様々な動乱を経なければならなかった。その動乱の幕開けが、保元の乱(1156)であった。


■4.平安京の「平安」が失われた日

 保元の乱は、わずか4、5時間で終わった。保元元年(1156)年7月11日の午前4時に始まって、午前8時には決着がついていた。しかし、その傷跡は次第に大きく広がって乱世をもたらしていく。

 事の発端は、7月2日に鳥羽法皇が崩御されたことだった。鳥羽法皇の第一皇子・崇徳上皇は5歳で帝位についたが、23歳の時に父法皇の仰せにより弟の後白河天皇に皇位を譲っていた。その不満から後白河天皇に対して、兵を挙げたのである。

 崇徳上皇方についたのが、これまた関白太政大臣・藤原忠実の次男で不遇を囲っていた頼長であった。父はこの次男に実権を握らせようとしていたが、後白河天皇方についていた長男の忠通が邪魔になっていた。

 いざ戦さとなると武家の力が必要だ。後白河天皇には源氏と平家の「氏の長者」である源義朝(よしとも)、平清盛がついていた。崇徳上皇方には、義朝の父・源為義(ためよし)と弟・源為朝、清盛の叔父・平忠正(ただまさ)がついた。

 こうして、皇室、藤原氏、源氏、平氏がそれぞれ、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて、骨肉の争いとなったのである。

 わずか4、5時間の戦闘とは言え、都が合戦の舞台となった事の衝撃は大きかった。それまでは蝦夷との戦乱や平将門の反乱などはあったが、いずれも遠く離れた関東や東北の出来事であり、平安京は、その名の通り「平安」であった。その京のど真ん中で、武士どうしの殺し合いが生じたのだ。

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■5.347年ぶりに死刑が復活

 保元の乱で「平安」時代が終わったというのは、戦いに負けた上皇方の源平70人ほどの武士が斬られた事からも当時の人々が実感したことだろう。

 皇族や貴族は従来どおり遠地に流された。崇徳上皇は讃岐に、藤原頼長は流れ矢に当たって死んだが、その子の兼長は出雲に、という具合である。

 これは良いとしても、武士の処分では非情な命令が出された。平清盛は叔父の忠正親子を斬り、源義朝は父・為義、弟・頼賢(よりかた)、頼仲(よりかた)ばかりでなく、罪もない幼少の弟たちを斬らねばならなかった。

 平安時代の347年間、東北や関東での戦乱を除いて、久しく死刑は行われなかった。朝廷で死刑とされても、天皇に上奏すると思し召しによって罪一等を減じて流罪に処せられるのが常だった。

 たとえば橘逸勢(たちばなのはやなり)は842年に謀反を企てたとして伊豆に流されている。逸勢は伊豆への護送途中に病没したが、850年には罪を許され、正五位下の位階を追贈されている。

 こうした平安の伝統を打ち破って、死刑を復活させ、さらに清盛と義朝に、自らの叔父や父、弟たちまで斬らせるという酷薄な処分を下したのは、僧・信西だった。


■6.策謀でのし上がった者は策謀によって滅ぶ

 信西は出家前は下級貴族だった。史学と法律を学んだ英才だったが、家柄が低いために出世できない。そのため39歳で出家した。その時の歌が残っている。

 ぬぎかふる衣の色は名のみして心を染めぬことをしぞ思う

(出家して墨染めの衣を着たのは形だけであり、心はけっして出家などしていないのだ)

 と、出家は野心のために世を欺く手段である事を詠っている。偽りに満ちた性格を窺わせる。

 たまたま彼の妻が後白河天皇の乳母だったつながりで出世をし、保元の乱に際しては、天皇方の参謀として勝利に貢献した。

 乱の後、347年間も死刑がなかったという我が国の穏やかな伝統を無視して、武家に肉親殺しを命じた酷薄さからは、彼の学んだという歴史や法律は、中国の学問だったのではないか、と推察される。

 信西が義朝に父親や幼い弟たちまで斬らせたのは、それまで権勢を誇っていた藤原氏と関係の深い源氏を弱体化させようという魂胆からだった。これだけの犠牲を払って、義朝が得たのは正五位下に過ぎなかった。信西は、逆に大した武功もない平清盛を正四位下につけた。

 後白河天皇はわずか3年で皇位を二条天皇に譲り、院政を始めた。信西はその院政の中心となる。そして、今度は二条天皇の親政を目指す一派が決起し、義朝も荷担して、後白河上皇を内裏に押し込め、信西を殺害した。これが平治元(1159)年の平治の乱である。

 この乱で義朝は清盛に敗れ、源氏は13歳の頼朝だけが一命を許されて伊豆に流された。源氏は雌伏し、平家全盛の時代が始まる。しかし、その清盛も治承5(1181)年、頼朝率いる源氏の一族が各地で反旗を翻す中、高熱に苦しみながら悶え死んだ。

 乱世をもたらした保元の乱の勝者3人は、信西は3年後、義朝は4年後、清盛は20数年後に、それぞれ非業の死を遂げた。


■7.滅びぬる事は天の理(ことわり)なり

 鎌倉時代後期から南北朝時代に生きた北畠親房(きたばたけちかふさ)は史書『神皇正統記』で、保元の乱での義朝の行いをこう批判している。

__________
 義朝・・・父の首をきらせたりし 事、大なる科(とが)なり、古今にもきかず和漢にも例なし、勲功に申し替ふとも、みづから退くとも、などか父を申し助くる道なかるべき、名行欠け果てにければ、いか でか終(つひ)にその身を全くすべき、滅びぬる事は天の理(ことわり)なり

(義朝が父の首を斬らせたことは、大いなる罪科である。古今にも聞かず、日本にも中国にも例のないことだ。自分の勲功に替えても、自ら身を退くとしても、どうして父を助ける道がないという事があろうか。人の道を外れていたので、どうしてその身を全うできよう。滅びたのは天の理である。(拙訳)
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 義朝が父を斬るという科を犯したので、天に滅ぼされたというのは、前近代的な迷信のように聞こえるだろうが、次のように現代的に解釈すれば、一理ある事が感じられるだろう。

 すなわち、信西も義朝も清盛も、己が栄達のために道義を踏み外す事を厭わなかった。そういう行いは、他者の恨みを買ひ、また同様の人物の野望に火をつけ、徳なき戦いが繰り返される。その過程で、3人とも身を滅ぼした。これが乱世の理(ことわり)である。

 北畠親房は「是より乱れ染めぬるも、時運の下りぬる姿ぞと覚え侍(はべ)る」と保元の乱を評している。


■8.皇室の権威が揺らげば、我が国は乱れる

 そもそも、保元の乱の発端は、鳥羽法皇崩御の後、その第一皇子ですでに退位していた崇徳上皇と、その弟にあたる後白河天皇の争いであった。幼い皇子を皇位につけ、その陰で法皇や上皇が政治を握るという院政が、この争いの遠因だった。

 自由社版は、「院政」の項で、こう述べる。

__________
 11世紀のなかばすぎ、170年ぶりに、藤原氏を外戚に持たない後三条天皇が即位し、みずから政治を行った。これによって、藤原氏の勢力は抑えられた。・・・

 その流れを受けついだ白川天皇は、14年間在位したのち、幼少の天皇に皇位をゆずり、白川上皇として天皇の後ろ盾になって政治の実権を握った。この政治を院政という。摂関政治は、天皇の母方の一族が実権を握る政治だったが、院政では、天皇の父や祖父が、朝廷のしきたりにとらわれない政治を行った。[1,p75]
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 藤原氏が皇室の外戚として実権を握っていた平安時代は、おおむね死刑もない安定した平和の時代で[b]、国風文化も大いに栄えた[c]。権力は藤原氏が握っていたが、権威は皇室にあり、その皇室の中で分裂はなかった。

 しかし、院政は皇室の権威を天皇と上皇に二分させてしまう危険性を内包していた。鳥羽法皇が崩御されて、わずか9日後に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱は、その現れである。

 国民統合の中核たる皇室の権威が揺らげば我が国は乱れるのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog082.html

b. JOG(857) 歴史教科書読み比べ(16) : 平安時代を支えた藤原氏の英智
 平安時代は、藤原氏の専横と国司の人民収奪で乱れた時代だったのか?
http://blog.jog-net.jp/201407/article_3.html

c. JOG(877) 歴史教科書読み比べ(18) : かな文字と平安朝文学の独創性
 ドナルド・キーンは、平安朝を「世界史上最高の文明」とまで言っていた。
http://blog.jog-net.jp/201411/article_8.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2.上横手雅敬『日本の歴史文庫〈6〉源平の盛衰』★★、講談社、S50


■おたより

■大輔さんより

 今回の号もそうでしたが、貴誌の中にはよく天皇のことが出てきます。

 私は正直、天皇のことをほとんど知りません。むしろ天皇が素晴らしい方だという話よりも、正しいかどうかは分かりませんが、天皇家の暗部ばかり知っていると言っても過言ではありません。なので正直、今あまり尊敬していません。

 今思えば高校時代の日本史の先生も左翼だったと思います。あからさまに「日の丸・君が代」は国旗でも国歌でもないと言っていましたから。

 あと、出自がばれるのを恐れてか、古墳に入らせてもらえないとか。明治天皇のお父さんは孝明天皇ではないとか。伊藤博文氏が天皇を傀儡にするために大室寅之祐氏を天皇にしたとか。

 最近、苫米地英人さん著「日本人の99%が知らない戦後洗脳史」という本を読みました。そこには大東亜戦争戦争中、天皇家は戦争でたくさんお金を稼いだとか、国民が戦死・餓死していく中でも、施しはしてくれなかった様子が描かれていました。

 被災地訪問や国民のための祈りもありがたいことは確かですが、被災地訪問や祈りよりも食べ物や食費が欲しいというのが貧乏人の本音だと思います。

 天皇家に関して正しい知識を身に着けるためには貴誌の何号が参考になるでしょうか。あと、推薦図書があれば教えて頂けるとありがたいです。

■編集長・伊勢雅臣より

 私自身は、以下の号に書いた昭和天皇の戦後の御巡幸で、皇室の本質がよく分かったと思いました。

JOG(136) 復興への3万3千キロ
「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog136.html

 それ以降、いろいろ皇室のことを調べても、この確信は深まるばかりです。

テーマ「皇室の祈り(平成)」のブログ記事
http://blog.jog-net.jp/theme/148e522f85.html

 ご自身の頭と心で、自分が信じられるのは何か、を考え、感じて下さい。


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