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zoom RSS No.880 両陛下のお祈りが国を元気にする 〜 平成の国見

<<   作成日時 : 2014/12/21 07:32   >>

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 両陛下のお言葉に勇気づけられた人々が、被災地の復興を成し遂げた。

■転送歓迎■ H26.12.21 ■ 43,249 Copies ■ 3,944,903Views■


■1.「天子様が見て誉めると状況はその通りになる」

 国見(くにみ)とは、天皇が国土を巡幸することで、その繁栄を祈ることだ。万葉集冒頭の第2首目に次の舒明天皇の御製がある。

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大和には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ天の香具山 登り立ち 國見をすれば
國原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ
海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ
うまし國ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の國は

(大和には多くの山があるが、とりわけて立派に装っている天の香具山、その頂きに立って国見をすると、国土には炊煙がしきりに立ち、海上には鴎が翔り続けている。美しい国よ、蜻蛉洲大和の国は)
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 単に国土を見て賛美した、というだけではない。

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 見ることは、視察に留まらず、良き状態への転換を生む力の付与なのである。見て誉めることは対象を誉めた状態に転化させることなのだ。天子様が見て誉めると状況はその通りになる。それは古代人にとって観念上のことではなく現実のことであった。[1,p6]
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 これは古代人の迷信ではない。平成の現在においても、現実に起こっている事実であることを、以下に紹介したい。


■2.「二度とこの場所に住むわけにはいかないかもわからない」

「きれいな村だったんでしょうね」という陛下のお言葉が、新潟県の山古志村の長島忠美村長は、ずしんと胸に刺さったという。

 平成16(2004)年10月23日午後5時56分、マグニチュード6.8の中越地震が山古志村を襲った。地滑りによって東京ドーム63個分の斜面が崩れ、住宅の40%が全壊し、1029ヵ所の農業道路、460ヵ所の水路、194ヵ所の棚池が被害を受けた。

 長島村長は、日本初となる全村避難勧告を決断した。村民2千2百余名の避難を見届けて、最後に村を離れた。その時の心境を、こう語る。

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 あの時は、自分が情けないのと、何をしたらいいのかわからないい絶望感で一杯で、涙が止まりませんでした。村民を避難させた後、自衛隊の方と村の中を最終点検をすることになりました。その時、口が裂けても村民には言わないでおこうと思ったことがありました。

二度とこの場所に住むわけにはいかないかもわからない、実はそんな気持ちを抱いてしまったんです。絶望という言葉は知っていましたが、何をしたらいいかわからない、何ができるのかわからない、というそれが絶望だと感じました。[1,P48]
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■3.「きれいな村だったんでしょうね」

 震災からわずか2週間後に、両陛下がヘリで山古志村の状況をご視察になることになった。

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 新潟空港からすぐヘリに乗って山古志に向かうことになりました。そして山古志に入り、私が説明する番になりました。ヘリっで騒音が大きくて、通路を挟んでお話ししたらあまり聞こえないんですよね。すると隣に座るように言われまして、陛下のお耳元でご説明することになったんです。

そのとき私は、両陛下のいらっしゃる日本国民でよかったと思いました。陛下は「牛はどうしていますか」、「錦鯉はどうしたんですか」ってご質問になるんです。もちろん我々のことも心配してくださいました。

そのあとで言われた「きれいな村だったんでしょうね」というお言葉がずしんと胸に刺さりました。両陛下がきれいな村だったと言ってくださっている村を取り戻さないわけにはいかないと思って、私の勇気を奮い起こしてくれました。[1,p52]
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 陛下が牛や錦鯉のことも訊ねられたのは、山古志村の闘牛「角突き」は戦国時代以前に遡る神事であり、また錦鯉の養殖が山間部の生活の糧であったからだ。角突きは昭和53(1978)年には国の重要無形民俗文化財に指定されている。ご視察の前に、そこまで調べられていたのだろう。

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 長島村長は最終的に1200頭の牛をヘリに乗せて救出する、という決断をする。生活の復旧が最優先で、角突きなどという文化的なものは後でいい、という議論もあった。

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でも、牛の命を救うことと文化を守るということは私たちにとっては一つでした。仮設の闘牛場でもいいから闘牛という文化を再生しようと考えていました。牛が元気になれば私たちも元気を出せるという思いがそこにあったからです。[1,p51]
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 山古志村の「角突き」は、二頭の牛が角を突き合わせて戦うが、これ以上戦わせるとどちらかが倒れるという寸前に、行司役が「引き分け」を下し、勢子(せこ)が二頭を引き離す。勝敗はつけずに、いつも「引き分け」で終わる。これは山間の物資の運搬に牛が欠かせず、家族のように扱ってきたからだ、とある村民は言う。


■4.「角突きの技見るはうれしき」

 4年後の平成20(2008)年9月8日、再び、両陛下は山古志村を視察された。今度はヘリコプターではなく、村内を歩かれて、錦鯉の養殖や牛の角突きをごらんになられた。

 長島村長の話によれば、皇族が山古志村に来られるのは有史以来のことであり、村民の気持ちも高まって、誰が言ったわけでもないのに全ての家が国旗を掲揚していた。

 両陛下は次のような御歌を詠まれた。

 天皇陛下 中越地震被災地を訪れて(平成20年)
なゐ(地震)により避難せし牛もどり来て角突きの技見るはうれしき

 皇后陛下 旧山古志村を訪ねて(平成20年)
かの禍(まが)ゆ四年(よとせ)を経たる山古志に牛らは直(なお)く角を合はせる

 角突きは山古志村の人びとの心を結ぶものであった。それが復活したということは、もとの「美しい村」に戻ったということであろう。

 翌平成21(2009)年10月11日、闘牛場が改修され、その場内に両陛下の御歌を刻んだ碑が建立された。両陛下に見守っていただいて、復興を成し遂げ得た村民の感謝の現れである。

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■5.「おばさん、今度家に来てね」

 三宅島は東京から60キロほど南下した海上にある、伊豆諸島の一つだ。島の中心にある雄山(おやま)が平成12(2000)年に大噴火し、全島民が本土に避難した。

 平成17(2005)年、村長の決断により、帰島が開始され、噴火前の約75%にあたる2800人が我が家に戻った。これまでの間、両陛下は毎年、村民の避難先を訪問されて、激励を続けられた。

 平成12年12月20日 あきる野市「都立秋川高等学校」に避難児童をご訪問
 平成13年8月27日 下田市「下田臨海学園」に避難漁業者をご訪問
 平成14年3月18日 八王子市「三宅島げんき農場」に村民をご訪問
 平成15年4月30日 江東区「三宅村ゆめ農園」に村民をご訪問
 平成16年5月20日 北区「三宅村桐ヶ丘支援センター」に村民をご訪問

 被災当初だけでなく、その後も被災者がもとの生活に戻れるまでお見舞いを続けるというのは、両陛下の御思いである。

 下田市では並んで待っていた被災者の中で、小学校低学年の女の子が皇后陛下に「おばさん、今度家に来てね」と言った。まだ小さくて皇后陛下のことを分からなかったのだろう。その女の子の家族は、下田に家を借りて住んでたのだが、次の日に皇后陛下が本当に玄関に立っていて、びっくりしたという。


■6.「良い日が来る事を祈っています」

 平成16年の北区「三宅村桐ヶ丘支援センター」では、避難中の高齢者たちに、両陛下は一人ひとり「こちらの生活にはなれましたか?」「三宅島の家は大丈夫ですか?」「良い日が早く来る事を祈っています」と声をかけられた。

 三宅島で特別養護老人ホーム「あじさいの里」施設長をしていた水原光男さんは、「両陛下にお言葉をかけていただいて、皆とても喜んでいました」と語る。水原さん自身も、陛下から「お疲れ様、ごくろうさま」と声をかけていただいた、という。

 翌平成17年2月に避難指示が解除されて、島民の帰島が始まったが、「あじさいの里」再開の目処は立っていなかった。介護をする職員が退職を余儀なくされ、しかも避難先ですでに職についていたからだ。介護職員がいなくては介護認定を受けている人びとは島に帰れない。

 しかし、両陛下のお見舞いが、水原さんの使命感に火をつけた。

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 陛下にご心配いただき、「良い日が来る事を祈っています」とのお言葉を賜った高齢者たちは、早く島に戻りたい、元いたところに戻りたいとの気持ちを強く持っていました。

そのような人々にとって島に戻る事は喫緊の課題であり、そのためにも「あじさいの里」はなくてはならない施設でした。だからこそ、早急に何とかしなければならなかった。[1,p19]
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 高齢者受け入れの第一歩として、平成17年4月にデイサービスを行うセンターが開設された。しかし職員2人で150人もの在宅介護を行わなければならなかった。

 その後、水原さんは職員確保に奔走して、平成19年4月、17名の職員を得て「あじさいの里」が再開され、介護認定された高齢者もようやく帰島が叶った。


■7.「この島に戻りこし人ら喜び語る」

 平成18年3月7日、両陛下は三宅島をご訪問され、デイサービスセンターにも立ち寄られた。そこでお待ちしていた20名ほどのお年寄りに、両陛下は親しく声をかけられた。その時の様子を水原さんはこう語る。

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 両陛下は、利用者に対して、島に帰ってからの生活や精神的な状況、帰ってきた感想を聞かれたり、また励ましのお言葉をかけられたりしていました。特に精神面に対してかけられるお言葉が多かったです。これまでの噴火で島外へ避難することはなかったので、噴火が高齢者に与えた精神的影響はとても大きいものでした。[1,p21]
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 両陛下は農業関係者と懇談する場では、集まった人々に「あなたはあのときいらっしゃいましたね」などと話しかけて、皆を驚かせた。その時のことを平野村長はこう語る。

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 とにかく普通の人とは気遣いが違います。両陛下は島に3時間くらい滞在されましたが、島民全部が感動していたんじゃないでしょうか。この島まで足を運んでいただいたこと自体嬉しい事なのに、様々なお気遣いをいただいたことは、ちょうどこれから復興していこうとしていた私たちにとって、とても大きな励みになりました。[1,p22]
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 噴火以来、6年もの間、両陛下に見守っていただいた事を後世に残したいと、村役場に平野村長自らが揮毫して次の御製の碑が建てられた。

 三宅島(平成18年)
ガス噴出未だ続くもこの島に戻りこし人ら喜び語る

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■8.「天子様が見て誉めると状況はその通りになる」

 前号でも紹介したが、現代リーダーシップ論の旗手サイモン・シネックは「人を動かすのは、利益ではなく、大義だ」と言っている。
 その言葉通り、山古志村の長島村長や、「あじさいの里」の水原施設長を動かしたのは、村民のため、高齢者のため、という「大義」であった。この二人を中心に、周囲の多くの人々がこの大義に共感して、力を合わせたので、復興が成し遂げられたのだろう。

 そして、これらの人々に大義を改めて強く心に刻ませたのが、陛下のお言葉だった。長島村長は「両陛下がきれいな村だったと言ってくださっている村を取り戻さないわけにはいかない」と決意し、水原施設長を動かしたのは「良い日が来る事を祈っています」という御言葉に高齢者たちが島に帰りたいという気持ちを強くしたことだった。

 両陛下のお言葉によって「世のため人のため」の志に火をつけられた人々が国家、国民のために尽くす。皇室は国民統合の象徴であるが、統合力の源泉でもあるのだ。

「天子様が見て誉めると状況はその通りになる」という古代人の国見の信仰を、21世紀の我々日本国民は目の当たりにしているのである。「両陛下のいらっしゃる日本国民でよかった」とは、長島村長だけの思いではあるまい。

 この12月23日、天皇陛下は満81歳の誕生日を迎えられる。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOGテーマ「皇室の祈り(平成)」
http://blog.jog-net.jp/theme/148e522f85.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 松井 嘉和 (監修), 全日本学生文化会議 (編集)『天皇陛下がわが町に―平成日本に生まれた物語』★★★★、明成社、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/494421989X/japanontheg01-22/

■おたより

■海崎さんより

 感動して読みました。「天子様が見て誉めると状況はその通りになる」これは事実だと思います。

昭和23年、福井大地震の被災地を、天皇陛下が行幸され、福井の復興が早まった記憶があります。私はまだ子供で、この時の親の苦労した姿しか覚えていませんが、昭和20年の空襲・23年の震災のあと数年のうちに、元の福井に戻りました。

 地震で殆どの家屋や道路・橋が壊され、地面のあちこちにパックリ亀裂が入り、当時私が通っていた小学校も潰れ、自分が住む家もなく、これではもうここには住めないのではないかと思いました。

 我が家は両親が、壊れた家の廃材を使いバラックを建ててしのぎ、学校はテントを立ててその中で授業を再開しました。冬雪が降る迄に、何とか雪に耐えられる学校が出来ました。

 震災のあと昭和天皇が行幸され、被災地をご覧になって激励を戴き、それで県民は再び立ち上がる勇気がでて、復興が早まった記憶が残っています。「あの時は天皇陛下に大きなお力を戴いた」と後々まで話題になっていました。

 そして田畑は従来通り残っていました。「国破れて山河あり」と言いますが、地震で家々が倒壊しても田畑が青々と育っている事に勇気づけられました。

 もうすぐ天皇誕生日ですね。陛下には今後も御元気であってほしいと、心から願っています。

■編集長・伊勢雅臣より

 平成の国見と、昭和の国見はまったく同じですね。昭和天皇は、終戦後に全国を巡幸されて、国家の復興を祈られました。

JOG(136) 復興への3万3千キロ
「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog136.html





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No.880 両陛下のお祈りが国を元気にする 〜 平成の国見 国際派日本人養成講座/BIGLOBEウェブリブログ
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