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zoom RSS No.867 歴史教科書読み比べ(17) : 大陸の動乱と遣唐使の廃止

<<   作成日時 : 2014/09/21 06:58   >>

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 平安朝では学問も進み、戦乱の続く中国大陸から学ぶべきものは残っていなかった。

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■1.「菅原道真が提唱した遣唐使廃止の理由」

「歴史教科書読み比べ(16):平安時代を支えた藤原氏の英智」[a]では、天変地異がうち続く中でも、人口増を支えた藤原氏の奮闘を描いたが、内乱のうち続く大陸との縁を切って、遣唐使を廃止したことも英断の一つであった。

 自由社の歴史教科書は「9世紀に入ると唐がおとろえた。朝廷は菅原道真の意見を取り入れて、894(寛平6)年に遣唐使を廃止した」と述べ、「菅原道真が提唱した遣唐使廃止の理由」と題するコラムで、次のような理由を挙げている。[1,p68]

__________
(1) 中国では内乱が続いている。
(2) 遭難が多く、国家有為の人材を失う。
(3) 日本と唐の文化は対等で、もはや学ぶべきものはない。
(4) いつのまにか朝貢のようにあつかわれており、国の辱(はずかしめ)である。
(「菅家文集」より)
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 遣唐使廃止は、わが国の文化的独立を象徴する歴史的な事件であり、その廃止を提唱した菅原道真の説明を記載している点は優れた配慮だが、ここの所はもう少し背景の説明が必要だ。

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■2.「唐や新羅の商船を利用して」

 同じ遣唐使廃止を東京書籍版はこう説明する。

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東アジアの変化と遣唐使の廃止 その後も多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して日本と唐との間を行き来しましたが、唐では国内が乱れ、9世紀にはその勢力が急速におとろえたため、日本は長く続けてきた遣唐使を廃止しました。

 唐は10世紀のはじめにほろび、やがて宋が中国を統一しました。同じ頃、朝鮮半島では高麗(コリョ、こうらい)がおこり、新羅をほろぼしました。

 日本は、宋や高麗とは正式な国交を結びませんでしたが、両国の商人の活動を通じて、文物を輸入しました。[2,P42]
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 自由社版よりはやや精しく中国大陸や朝鮮半島の情勢が書かれているが、よく読むと、巧みなトリックによる偏向記述が隠されている。

「多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して日本と唐との間を行き来し」たというのは、事実だが、その後、遣唐使廃止の文を続けているために、あたかも遣唐使も「唐や新羅の商船」を使ったかのように誤解してしまう中学生もいるだろう。

 遣唐使船が日本の船である事は、Wikipediaの「大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の『住吉大神』を船の舳先に祀り」という記述[3]からも明らかである。そもそも大和朝廷は、すでに3百年以上前の663(天智2)年に、朝鮮半島の白村江の戦いで400隻もの軍船を送っているほどの造船・操船技術を持っていた。[b]

 なのに「多くの僧が、唐や新羅の商船を利用して」というのは、大陸や半島の戦乱から国内を守るために、大和朝廷が半鎖国政策をとって、日本の商船の渡航を禁じていたからである。


■3.戦乱うち続いた中国大陸と朝鮮半島

 東書版では「唐では国内が乱れ」「宋が中国を統一しました」とか、「朝鮮半島では高麗(コリョ、こうらい)がおこり」などと、さも平和的な政権交代が起こったかのように記述しているが、当然、王朝交代には激しい戦乱がつきものであった。

 唐は907年に滅びたが、その末期には859年、868年と内乱が続き、874年から884まで10年も続いた黄巣の乱は全国に波及した。菅原道真が遣唐使廃止を提唱した理由の第一に「中国では内乱が続いている」とあるのは、この事である。

 唐の滅亡後は、907年から960年の半世紀もの間、華北では5つの王朝が興っては滅び、また華中、華南では10カ国もの地方政権が割拠したため、この時代を「五代十国時代」と呼ぶ。

 一方の新羅は唐との対立から長らく日本に従属し、朝貢する関係にあった。752(天平8)年には新羅王子が7百余名もの新羅使を伴って朝貢した。しかし、その北に渤海が興り、唐との戦いを始めると、新羅は唐に接近して、渤海を攻撃する。

 唐との関係が良くなると、新羅は日本に無礼な態度をとったり、また国内が混乱すると、慇懃な態度に戻ったりと、その節操なき外交姿勢は現在の韓国・北朝鮮と同様であった。

 そして新羅の国内情勢が悪化すると、人民の一部が日本に亡命してきたり、賊と化して対馬や博多を襲ったりした。朝廷は842年に新羅人の入国を禁じ、流民は食料を与えて帰国させ、商人は交易終了後、直ちに帰国させることを命じた。[3,p150]

 内乱が続く中で、892年に南西部に後百済が興り、901年には北部で後高句麗が建てられて、3国が争う時代に入る。そして後高句麗が政変により高麗となり、後百済、新羅を亡ぼして、ようやく半島を統一したのは936年であった。

 10世紀前半は大陸も半島も、このような戦乱の最中にあった。
大和朝廷が、遣唐使をやめ、半鎖国状態をとったのは、こういう国際情勢からだった。平安時代には、まさに平安のうちに国風文化が花開いたが、その結果から見ても半鎖国政策は正しかったと判断しうる。


■4.宋から輸入品

 東書版は、遣唐使廃止後も「両国の商人の活動を通じて、文物を輸入しました」という。あいかわらず「先進地域から文明を学んだ」というふうに読めてしまうが、実際はどうだったのか。

 大陸で群雄割拠した10国のうち、揚子江の下流、東シナ海に面した呉越国は他国よりも平和だったために産業や文化が発達し、海外貿易も盛んで、わが国にも936(承平6)年以降、数回使者を送ってきた。また、この地方に960年、宋王朝が興り、半世紀ぶりに大陸を統一した。

 宋の商船はしきりにわが国に来航して、12世紀の半ばまでの約2百年間に70回以上に達した。朝廷は宋船の来航を制限する法令も出したが、貿易の利益を狙う宋の商人は太宰府の管理する博多港をさけ、越前の敦賀などに密入国までした。

 日本が「文物を輸入した」というのは史実の半面で、日本からの輸出品で大儲けできるから、多くの宋船がやってきたのである。宋の商人が持ってきたのは、絹織物、香、薬品、陶器、文房具、書籍など、平安貴族が珍重する贅沢品が多かった。

 輸入されたのは中国の文物に限らない。ペルシャ産のガラス器やインド、東南アジアからの香木、染料、薬物なども唐を経由して輸入された。宋は当時の国際貿易ネットワークの中心であった。宋の商人から輸入したと言っても、「中国の進んだ文物を輸入した」とだけ理解しては一面的である。

 また、東書版は何かと朝鮮を引き合いに出す習性をここでも見せて、わざわざ高麗商人の活躍も記載している。

 しかし、たとえば『日本全史』は「古代世界を結ぶ物流のネットワーク 輸入された文物」という見開き2ページの記事で、世界各地からの様々な舶来商品を紹介しているが、そこには朝鮮産の商品は登場しない[4,p150]。朝鮮は地理的な利点から仲介貿易には関わっても、平安貴族が珍重するような文化財は産出していなかったようだ。


■5.宋の商人が求めたもの

 一方、宋の商人がわが国に求めたのは、金・銀・硫黄・水晶などの鉱産物、絹、布などを中心として、金銀蒔絵(まきえ)、漆器類、扇・屏風・刀剣などの工芸品も珍重された。日本が一方的に「文物を輸入」したのではなく、互いの文化財を交換したのである。

 1073(延久5)年、宋の第六代皇帝・神宗は、渡来していた日本僧の帰国に際して、大和朝廷あての正式の国書と贈り物を持たせて、国交を開こうとした。しかし朝廷は国交再開には消極的だった。

 宋との貿易は貴族の珍重する贅沢品が中心で、これ以上、拡大しても国益が増進するはずもなく、また宋が統一したとはいえ、いつまた動乱に戻るかも知れない大陸に関わっては、国内の平和が脅かされる恐れもあったからだろう。

 日宋貿易とは言っても、宋の方が熱心で、日本の方が消極的だったという史実を見れば、「文物を輸入しました」というより、「日本の文物を求めて、朝廷の半鎖国政策もものともせずに、宋や高麗の商船がやってきました」と書いた方が正確だろう。


■6.日本から仏典を逆輸出

 遣唐使廃止の理由の第3に「日本と唐の文化は対等で、もはや学ぶべきものはない」という点も、国史を学ぶ上で重要なポイントだ。國學院大學名誉教授の樋口清之氏は『うめぼし博士の逆・日本史3』で、こう語っている。

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 遣唐使制度が始まってからわずか十数回も往復しただけで、平安初期には、すでに中国の文化・文物の大部分が日本に輸入されてしまう。仏教経典の全集というべき大蔵経も来てしまった。大蔵経とは、三蔵法師が天竺(インド)から中国へ持ち帰って漢訳した仏典のことである。[5,p105]
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 日本があらかたの仏典を持ち帰ったのに対して、中国では五代十国の戦乱で、多くの文献が失われたようで、宋代に渡った日本人僧は逆に多くの書籍を持っていった。

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 1003年(長保5)年に入宋した天台宗の僧寂照(じゃくしょう)も多くの書物を持っていったが、そのうちにも宋ではもはやみることのできなくなったものもあって、その一部はかの地の僧の手によって出版されたという。成尋(じょうじん)は天台宗や真言宗関係の経典6百巻以上をたずさえて渡宋したが、これもかの地では貴重なものであったらしく、神宗に献上されている。[5,p155]
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■7.中国以上に進んでいた我が国の仏教学

 半世紀もの戦乱で多くの書物が失われたということは、焼かれた寺や殺された僧も多かったであろう。そんな動乱の中で仏教研究が進むはずもない。逆に平和な日本では、買い集めた仏典で研究に没頭することができた。宮内庁書陵部の橋本義彦氏は日本の僧が入宋に際して、書物を持っていった事に関して、こう述べている。

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 こうしたことは唐代までは見られなかったできごとで、わが国の仏教学が中国と対等、あるいはそれ以上の地位まで進んだことを語っている。[5,p155]
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 その実例として氏は、源信(942-1017)の著した「往生要集」が中国に送られ、多いにもてはやされた、という事実を挙げている。

 また、上述の成尋の旅行記では、多くの学僧と会った話はあるが、教えを受けた様子はなく、かえって法華経の講義をしたことが書かれている。[5,p156]

 寂照は宋に在ること三十余年でかの地に没したが、その間第3代の皇帝真宋をはじめ朝廷の人々に深く敬愛されたという。[5,p157]

 しかし、それではなぜ日本僧たちは、はるばる波濤を超え、危険を冒して大陸に渡ったのか。彼らの目的は中国仏教の研究や、典籍の輸入ではなく、天台宗の根本道場である天台山に詣でたり、文殊菩薩があらわれるという霊場五臺山に巡礼することだった。

 たとえて言えば、中世以降の欧州のキリスト教徒が聖地エルサレムに巡礼をするようなもので、そこで何を学んだかという事よりも、苦難を乗り越えて、そこに行く事自体が修行だった。その求道心は立派である。


■8.大陸で活躍した日本人

 大陸に渡って活躍した日本人を見ても、日本の文明の程度がすでにひけを取るものではなかった事が分かる。

 弘法大師・空海は804(延暦23)年に遣唐使の一員として入唐した。船が目的地のはるか南の福州に到着した為、地方の役人が怪しんで都への出発許可を与えない。空海は遣唐大使の代理として福州観察使への手紙を書いたが、観察使はあまりに見事な漢文に驚き、ただちに疑いを捨てて、出発を許した。[6,p107]

 長安ではインド仏教の流れを伝える最後の高僧・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に巡り会った。死期の迫っていた恵果は空海を見るや「われ先より汝の来たるを知り、相待つこと久し」と喜び、千人以上もいた弟子たちを差し置いて、ただちに密教の秘法をすべて空海に授けた。こうしてインド密教の正統は、日本に伝えられたのである。[6,p117]

 留学生として有名なのは、奈良時代、717(養老元)年に入唐した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)である。唐で科挙に合格し、高官にまで出世し、李白や王維ら当時一流の文人たちと交際し、彼らに引けをとらない漢詩をつくっていたという。

 在唐35年にして、一度は帰国を許されて遣唐使の帰国船に乗り込んだが、ベトナム中部に漂着し、唐に戻った。帰国船に乗り込む前の送別会で、王維ら友人を前にして日本語で詠ったとされているのが、百人一首に選ばれている次の歌である。

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

 同じ天の原の月に照らされている、はるか郷里の山を偲ぶ切々とした望郷の思いが伝わってくる。こういう歌で、遣唐使として渡唐し異境に客死した先人の心を偲ぶことは、中学生の情操教育にも良いだろう。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(857) 歴史教科書読み比べ(16): 平安時代を支えた藤原氏の英智
 平安時代は、藤原氏の専横と国司の人民収奪で乱れた時代だったのか?
http://blog.jog-net.jp/201407/article_3.html

b. JOG(808) 歴史教科書読み比べ(10) 〜 白村江の戦い
 老女帝から防人まで、祖国防衛に尽くした先人の思い。
http://blog.jog-net.jp/201307/article_7.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. ウィキペディアの執筆者,2014,「遣唐使」『ウィキペディア日本語版』,(2014年9月18日取得,
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF&oldid=52588558

4. 蟹江征治他『日本全史(ジャパン・クロニック)』★、講談社、H2
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/406203994X/japanontheg01-22/

5.橋本義彦『日本の歴史文庫(5) 貴族の世紀』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETFY/japanontheg01-22/

6.目崎徳衛『日本の歴史文庫(4) 平安王朝』★★、講談社、S50
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B000J9ETG8/japanontheg01-22/

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