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zoom RSS No.823 歴史教科書読み比べ(12) :奈良時代、公地公民か階級社会か

<<   作成日時 : 2013/11/10 06:07   >>

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 唐に倣った平城京も口分田も、その内実はまるで違っていた。

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■1.城壁で囲まれた長安、城壁のない平城京

 710(和銅3)年、奈良に平城京が造られ、奈良時代が始まる。その平城京に関して、自由社版歴史教科書は興味深い指摘をしている。

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 平城京は唐の長安をお手本に設計された。ただし、日本の国情に合わせてつくられた部分もあり、長安には城壁がもうけられていたが、平城京には城壁はなかった。[1,p60]
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 さらに、「平城京と長安」と題したコラムでは、長安の10メートルを超える城壁の写真とともに、次のように説明している。

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 長安の都の外周は、高さ10m以上もある城壁で囲まれていた。皇帝の住まう宮城には、さらに高い城壁がめぐらされていた。平城京には城壁はなく、天皇の住まう宮殿も、すぐに乗り越えられる垣根が巡らされているだけだった。

 それだけではない。正方形や長方形に区切られた居住地区の一区画は、坊と呼ばれた。坊の中に居住していた有力者、役人、一般住民の総数は、長安で約100万人、平城京で約10万人だった。

この坊の一つひとつが長安では城壁で囲まれ、夜間には鍵で閉ざされた。外敵の侵入を防ぐとともに、坊の中にいる人々をとじこめ、管理した。平城京では、外敵も住民の逃亡も想定していなかった。[1,p61]
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画像

平城京


画像

長安



■2.「唐の都長安にならって」

 東京書籍版は平城京について、こう説明する。

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 律令国家の新しい都として、710(和銅3)年に、唐の都長安にならって、奈良に平城京がつくられました。奈良に都があった70年余りの間を奈良時代といいます。[2,p35]
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「唐の都長安にならって」というだけで、両者の違いに関する言及はない。

 都市が城壁で囲まれているかどうかは、その都市がどれだけ平和だったかを示す重要ポイントだ。古代ローマでは、帝国が盛りの頃は城壁がなかった。繰り返し押し寄せる蛮族は国境で撃退し、領土内の治安も良く、内乱の恐れもなかったからだ。しかし、3世紀後半、帝国の勢力が衰え、蛮族がイタリア半島にまで侵入するようになると、ローマに防衛のための城壁が造られた。

 平城京に城壁がなかった、ということは、外敵の侵入も内乱も恐れる必要がなかったということである。

 また「天皇の住まう宮殿も、すぐに乗り越えられる垣根が巡らされているだけだった」のに対し、「皇帝の住まう宮城には、さらに高い城壁がめぐらされていた」という違いからは、日本では皇室が安泰だったのに対し、唐の皇帝は国内の反乱・反逆からも身を守らなければならなかった事が分かる。

 さらに、長安では住民の逃亡を防ぐためにも、各坊ごとに城壁で囲まれていたという点からは、一般住民を収奪する階級社会であった事を窺わせる。


■3.貴族と庶民の貧富の差

 東書版では、そんな唐との違いはおくびにも出さず、「奈良時代の人々のくらし」と題して、当時の税の重さや、貴族と一般人民の暮らし振りの違いを強調する。

 たとえば、20皿もの貴族の食事と、3皿の一般人の食事を写真で比較している。また約250m四方もあったという天武天皇の孫・長屋王邸と、一般の人の竪穴住居を写真で対比している。

 しかし、貧富の差はどこの国のどこの時代でもあるものだ。たとえば現代中国では共産党幹部は賄賂代わりに超高級レストランで一人数万円の宴席に招待されたりする。それに対して貧しい一般人民の食事代はせいぜい数十円だ。その差、1千倍。東書版の指摘する20皿と3皿の差よりも、現代中国の差の方が凄まじい。

 都作りでは「唐の長安にならって」などと記しながら、階級格差については唐のことはおくびにも出さず、ひたすら日本の悪さだけを述べるというのは、二重基準である。唐と比較して、当時の日本社会を理解しようとするなら、良い点も悪い点も比較するのが公正な記述だろう。


■4.「公地公民」か「人々の負担」か

 都づくりと並んで、人民に口分田を与えるという政策も、唐を倣ったものだが、その内実にも本質的な違いがある。自由社版では口分田について、次のように説明している。

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公地公民と班田収受法

 律令国家のもとでは、公平な統治をめざして、すべての土地と人民を国家が直接おさめる公地公民の原則が打ち立てられた。この原則に基づき、人々に平等に土地を分ける班田収受法というしくみが整えられた。

 この法では、まず、6年ごとに改められる戸籍に基づいて、6歳以上の男女には生活の基礎となる口分田が与えられ、死後は国に返還された。口分田の支給を受けた公民は、租・調・庸と呼ばれる税をおさめた。[1,p61]
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 東書版では、班田収受法について、次のように述べる。

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人々の負担

 戸籍に登録された6歳以上のすべての人々に口分田があたえられ、その人が死ぬと、国に返すことになっていました(班田収授法)。人々は、口分田の面積に応じて租を負担しましたが、特に一般の成人男子には、都まで運んでおさめる調・庸などの税のほか、兵役の義務も課せられました。

兵士のなかには、防人(さきもり)として、九州北部の防衛に送られる者もいました。これらの負担をのがれるために、逃亡する者も出てきました。[2,p37[
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 自由社版は「公地公民の原則」から班田収受法を説明しているが、東書版では「公地公民」は出てこず、ひたすら税の負担を強調している。中学生の抱くイメージは相当に異なるだろう。


■5.「公地公民」か、「国家の小作人」か

 東書版では口分田に関して、次のように側注で説明している。

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 男子には2段(現在の約2300平米)、女子にはその3分の2、奴婢には良民の男女のそれぞれ3分の1の口分田があたえられました。[2,p36]
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 これは、いかにも女性差別や身分差別のように読める。しかし、『日本の歴史文庫3 奈良の都』は、唐と比較して、次のように述べている。

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 このように満6歳以上の男・女・奴・婢にすべて口分田を与えるというのは、班田収授法のいちばん大きな特徴である。唐の均田法では、原則として女や奴・碑には口分田を与えなかった。男も18歳以上59歳以下のものだけである。

つまり、調や庸などの税を負担するものだけが口分田を分け与えられたのだが、日本では税に関係なく口分田が与えられることになっていた。[3,p84]
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 ここから日本と唐の考え方の違いが見えてくる。唐では「調や庸などの税を負担する」成年男子のみに口分田を与えられた。ということは、口分田を貸し与えるから、税を払えということで、人民は国家の小作人に過ぎない。

 それに対して、日本では満6歳以上の子ども、老人、女性、奴婢にまで税に関係なく口分田が与えられていた。分量の差はあれど、口分田とはすべての民が生計を立てていけるように与えられたもので、現代流に言えば、「公民」に対する「基本的人権」であった。

 そして、調や庸などの税はそのうち成人の男子にだけ課されていた。「公民」すべてに口分田を与え、そのうち成人男子にのみ国家を支えるための税を求める、という考え方である。

 農民全体を小作人のように見なす、いかにも階級社会的な唐に比較すれば、当時の日本の制度には「公地公民」の理念が明確に窺える。


■6.階級差別と奴婢

 それでも、奴婢、すなわち、奴隷というと、いかにもおどろおどろしいイメージを中学生は抱くだろう。東書版はこう述べる。

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 公民のうちでも、ひとにぎりの貴族たちは、太政官をはじめとする役所で高い地位につきました。かれらは、調(ちょうう)、庸(よう)や兵役が免除され、高い給与や多くの土地をあたえられました。これらの特権は、その子孫にも引き継がれました。

 そのいっぽうで、少数ではありましたが、奴婢(ぬひ)とされた人々は、売買の対象とされ、奴婢以外の人との結婚を禁止されて、その子も奴婢とされました。[2,p36]
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 この文章を読んだ中学生は、さぞや古代日本はひどい社会だったと思い込むだろう。しかし奴隷制は近代以前にはどの国でも存在した。中国においては20世紀の中華民国時代に何度も法律で廃止されたが、実質的には1949年まで続いたとされている。[4]

 わが国における奴婢は、国内が統一されていった頃、戦いに負けて捕虜となった者や、罪を犯してとらえられた者、負債を払えずに貸し主の奴婢となった者などがいた。多く見積もっても、全人口の1割程度だったようだ。[3,p110]


■7.主人の許に逃げ帰った奴婢

 当時の奴婢の実態を窺わせる逸話が残されている。750年、朝廷が但馬の国(兵庫県の北半分)から5人の奴婢を買い上げて、東大寺に支給した。ところが、そのうちの2人、池麻呂(いけまろ)と糟麻呂(かすまろ)という、どちらも24歳の奴婢が但馬の元の主人の所に逃げ帰ってしまった。

 但馬の主人は国司に届け出たようで、二人は主人につきそわれて東大寺に送り返された。ところが二人はまたすぐに脱走してしまう。池麻呂の方は、はっきりしたことが判らないが、但馬の役人は東大寺に「糟麻呂をもとの主人につきそわせて送り返します」と手紙を送った。

 しかし、東大寺の方は二度も脱走した糟麻呂を哀れと思ったのか、その主人と一緒に帰国を許し、但馬の国には、「代わりの奴を買い上げて送るように」と手紙を出している。

 平城京から但馬までは5日ほどかかる。東大寺から脱出した二人が、わざわざ5日もかけて元の主人の家に帰ったということは、それだけ主人の許での生活が恋しかったということだろう。

 また当時は人々の自由な旅行が認められていないので、よそ者が村を通ればすぐに見つかる。近くの役所に訴え出れば、何らかの褒賞も期待できたはずだ。それなのに二人が二度も但馬の国に逃げ帰れたということは、道中で彼らを匿い、助けてくれた人々が多かった、と推察できる。[3,p110]

 これに比較すべきは、長安では住民の逃亡を防ぐために、各坊ごとに城壁で囲まれていた点だ。身分上は自由民であっても、これでは実質的には囚人ではないか。


■8.「公地公民」実現への苦闘

 朝廷は民に対して「公地公民」の理想を実現しようとし、また民衆は奴婢に対しても、同じ民として暖かく扱う傾向があった。

 これらの史実は、初代・神武天皇が建国宣言とも言うべき詔のなかで民を「おおみたから(大御宝)と呼び、「一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と述べた理想を思い起こさせる。[a]

 その理想に邁進するかのように、朝廷は多大な努力を傾注した。口分田を全国の農民に公平に与えるためには、農地を地割し記録していく必要があるが、農地を碁盤の目のように区画する「条里制」が奈良時代には全国的に用いられていた。今日でもその名残が北は秋田県から南は鹿児島県まで見られる。[3,p86]

 しかし、この時代は天候不順による凶作が多かった。また遣唐使によって大陸からもたらされたと思われる天然痘も、猛威をふるった。それによる農民の困窮を、朝廷は傍観していたわけではない。

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 709年には、この年の調と租を免じ、711年には、むこう3年間の稲の無利息貸し付けをおこなった。717年には、正丁の調の付加税と少丁の調を廃止した。[3,p102]
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 それでも根本的な解決にはならなかった。朝廷は、新たなる農地の開墾が必要と考え、農民が新たに開墾した水田は3代までの私有を認めるとの三世一身法を養老7(723)年に制定した。しかし、これが逆に「公地公民」の理想を崩していく。

 大和朝廷は「公地公民」の理想を実現しようと、苦闘を続けていた。貴族が農民を搾取していたという先入観を歴史に当てはめるだけの階級闘争史観では、朝廷の苦闘の様は見えないのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(074 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog074.html

b. 歴史教科書読み比べシリーズ
http://blog.jog-net.jp/theme/a8f4387c4d.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

2.五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3.虎尾俊哉『日本の歴史文庫3 奈良の都』★★、講談社、S50

4. Wikipedia「中国の奴隷制」
http://bit.ly/1a8XzzZ


■「歴史教科書読み比べ(12):奈良時代、公地公民か階級社会か」に寄せられたおたより

■知久さんより

 今回も素晴らしいご指摘ありがとうございます。

 毎年「正倉院展」に行くのを楽しみにしていますが、2007年の「正倉院展」に出陳された「出雲国大税振給歴名帳」(いずものくにたいぜいしんごうれき みょうちょう)は、「青身白髦尾」の馬が現れたことを慶事として食糧を配給した時の配給対象者のリストでした。

 高年(80歳以上)、鰥(「かん」、妻のない60歳以上の男性)、寡(「か」、夫のない50歳以上の女性)、「けい」 (「りっしん偏」に「旬」+「子」16歳以下で父母のない者)、 独(「どく」、61歳以上で子供のない者)、不能自存者(一人で は生活できない者)などに配られたようです。

 なんと、日本は天平の時代から福祉国家だったんだ、と感じました。


■編集長・伊勢雅臣より

 こういう具体的な資料から、当時のお国ぶりが窺えますね。

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