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zoom RSS No.811 命の使い方 〜 『永遠のゼロ』から

<<   作成日時 : 2013/08/11 02:19   >>

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 家族や世のため人のために自分の命を使おうと思えばこそ、その大切さに気がつく。

■転送歓迎■ H25.08.11 ■ 42,650 Copies ■ 3,725,288 Views■


■1.「僕の心はきれいな水で洗われたかのごとく清々しさで満たされた」

 百田尚樹氏の『永遠のゼロ』が売れ続けている。すでに240万部に達し、年末には映画も公開される。その裏表紙には、内容をこう紹介している。

__________
「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、1つの謎が浮かんでくるーー。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。
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 小説としての出来も素晴らしい。文庫本で600頁近い大作でありながら、読者をぐいぐいと引っ張っていく構成と筆力は見事だ。最後の結末は圧巻で、芸能界きっての読書家として知られる故・児玉清氏は、「解説」で次のように書いている。[1,p588]

__________
 なぜ、あれだけ死を避け、生にこだわった宮部久蔵が特攻で死んだのか。それは読んでのお楽しみだが、僕は号泣するのを懸命に歯を食いしばってこらえた。が、ダメだった。目から涙がとめどなく溢れた。・・・

 なんと美(うるわ)しい心の持主なのか。なんと美しい心を描く見事な作家なのか。なんと爽やかな心か。涙の流れ落ちたあと、僕の心はきれいな水で洗われたかのごとく清々しさで満たされた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 私も同様の思いをした。人間の美しい真心を描いて、大東亜戦争を戦った日本軍兵士は軍国主義に騙されて無駄死にをした、という戦後のイデオロギーを粉砕している。

 この本が、一人でも多くの人に読まれることを願って、以下、私が二番目に感動したシーンをご紹介したい。一番目はもちろんラストシーンだが、それは読者自ら原作を読んで、「心をきれいな水で洗われる」体験をしていただきたい。


■2.「お前にもぜひ聞いてもらいたいのだ」

 健太郎は姉と共に、かつて祖父と一緒に戦ったことのある元海軍飛行兵曹長・井崎源次郎を都内の病院に訪ねた。ロビーには、井崎の娘という50代の女性と、その息子が待っていた。息子は髪を金髪に染め、派手にペイントしたオートバイ用のヘルメットを抱えている。

「父は戦友会から、宮部さんのお孫さんから連絡があったと知らされた時は、大変驚いておりました。父の体はかなり悪くて、医者からは、あまり興奮するような話はしないようにと言われていましたが、どうしても会うと言って聞きませんでした」

 病室に入ると、ベッドの上に痩せた老人が正座していた。「お父さん、座ってなんかいて大丈夫なんですか」と慌てる娘に、「大丈夫だ」と力強く応えて、「井崎源次郎です」と頭を下げた。

 それから孫に向かって、「誠一、お前も一緒に聞きなさい」
「俺には関係ねえこどだろ」
「関係はないが、お前にもぜひ聞いてもらいたいのだ」

 井崎は健太郎の方に向き直ると、もう一度居住まいを正して、「宮部さんと出会ったのはラバウルです」と、ゆっくり話し始めた。

■3.「何という凄腕! 何という早業!」

 宮部らがニューギニア島のラバウルにやってきたのは、昭和17(1942)年7月だった。皆に挨拶があって、解散してから、宮部は井崎に「よろしくお願いします」と声をかけた。

 階級章を見ると一飛曹(一等飛行兵曹)で、下士官の一番上の階級である。一飛兵(一等飛行兵)の自分とは、とてつもない差がある。井崎は慌てて「こちらこそ、よろしくお願いします。わたくしは井崎一等飛行兵と言います」と大きな声で答えた。

「自分は宮部久蔵一飛曹です。よろしくお願いします」と軽く頭を下げた。こんな丁寧な口をきく上官にあったのは初めてだった。よほど育ちが良いのか、あるいは馬鹿なのか、どちらかだと思った。

 翌日、ポートモレスビーに出撃。ここには連合軍の基地があり、ここを奪えばオーストラリアはすぐ先にある。一小隊3機、3小隊の9機編成で、一番後方の小隊の2番機が宮部、3番機が井崎だった。

 スタンレー山脈を越え、わとわずかでポートモレスビーが見える地点に来た時、突如、上空の雲の隙間から敵機が襲いかかってきた。隊の一番、後方に位置していた井崎機に、敵の一番機が背中から食いついてきた。「やられる!」と井崎は思った。

 その時、井崎機を狙っていた敵戦闘機が突然火を吹いて吹き飛んだ。次の瞬間、井崎の目の前を一機の零戦がすごいスピードですり抜けた。宮部機だった。宮部は更にもう一機を撃墜し、旋回して逃げようとする敵機の背後に鋭い旋回で回り込み、一連射で撃ち落とした。

 この間、僅か数秒。何という凄腕! 何という早業! 井崎は鳥肌が立った。この頃の零戦は世界の戦闘機の中でも抜きんでた性能を誇っていた[a]。その名機を宮部は完璧に使いこなしていた。


■4.「敵を堕とすより、敵に堕とされない方がずっと大事だ」

 空襲を終えて基地に戻ると、井崎は真っ先に宮部に礼を言いに行った。宮部は笑っただけだった。 しかし、その後、一緒に戦っていると、ただ一つ、ひっかかる事があった。宮部はひっきりなしに後方を振り返り、また死角となる下方を見るために背面飛行も頻繁にやる。乱戦になると、いち早く逃げ出して、同じように戦域から逃れてきた敵機を狙う。臆病者かと思った。

 やがて宮部が小隊長になり、井崎はそのまま列機を務めるようになった。「他の小隊から妙に思われるので、丁寧言葉はおやめ下さい」と、井崎は頼んだ。

 宮部の消極的な戦い方を物足りなく思った井崎は、一度、小隊を離れて、敵戦闘機の背後にへばりついた事があった。敵機を撃ち落としたと思った瞬間、後ろから撃たれた。2機の敵機が背後から挟み撃ちするようにくっついている。左右どちらに逃げてもやられる。井崎は死を覚悟した。

 次の瞬間、敵の銃撃が止んだ。後ろを見ると、一機の敵機が火を噴いて錐揉み状態で墜ちていった。もう一機は急降下で逃げていった。後ろには零戦が一機いた。宮部機だった。宮部に命を救われたのは、これで2度目だった。

 基地に戻った時、礼を言う井崎に、宮部はにこりともせずに言った。「いいか、井崎。敵を堕とすより、敵に堕とされない方がずっと大事だ。たとえ敵機を討ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃墜する機会はある。しかし、一度でも撃ち落とされれば、それでもうおしまいだ」 死を覚悟した直後のせいか、宮部の言葉は心の底にずっしりと響いた。

「私がこの後、何度も数え切れないほどの空戦で生き延びることが出来たのも、この時の宮部小隊長の言葉のおかげです」とベッドの上の井崎は、健太郎たちに語った。


■5.「娘に会うためには、何としても死ねない」

 宮部はいつも夜半に宿舎を離れ、1時間以上も戻ってこなかった。ある日の夕暮れ、井崎が隊舎から離れた川に一人で釣りに行った帰りに、宮部が上半身裸になって、壊れた飛行機の銃身を片手で何度も持ち上げている光景を見た。

 宮部が立ち去った後、井崎は自分でその銃身を持ち上げようとしたが、重くてまったく持ち上がらない。両手でやっと持ち上げることができた。これを片腕一本で上下動させられるとはなんたる怪力。宮部一飛曹の華麗なる操縦技術はこの怪力に支えられていたのだ。

 翌日、「小隊長は毎日やっておられるのですか」と聞くと、黙って頷く。「今日はもうやめようと思う日はないのですか」とさらに聞くと、おもむろに胸ポケットから布袋を取り出し、その中に入っていた写真を見せた。それは若い婦人が生まれて間もない赤ん坊を抱いている写真だった。

「6月に生まれました。ミッドウェーから戻ってすぐに生まれたのですが、休暇が取れず、会いにいくことが叶いませんでした。ですからまだ一度も会ってないのです。辛い、もう辞めようと、そう思った時、これを見るのです。これを見ると、勇気が湧いてきます。」

 それから宮部小隊長は、写真を胸ポケットにしまうと、つぶやくようにこう言った。「娘に会うためには、何としても死ねない」 その顔は普段の温和な彼からは想像もつかないほど恐ろしい顔だった。


■6.「無理だ。こんな距離では戦えない」

 8月7日、ガダルカナルの戦いが始まった。ラバウルから約千キロもある。「無理だ。こんな距離では戦えない」と、宮部は悲痛な声で言った。それを聞いた若い一人の士官が怒髪天を衝くが如くの形相で向かってきた。

「貴様、今、何と言った」と言うが早いか、宮部の顔面を殴った。「貴様は宮部だな。貴様の噂は聞いているぞ、この臆病者め!」 士官はそれだけ言うと、その場を立ち去った。

 片道千キロでは巡航速度で3時間もかかる。戦闘時間は10分少々で、また3時間かかって戻る。その間に敵機が待ち伏せているかもしれないし、方位を見失って無駄な航路を取ると、燃料が足りずに帰還できなくなる恐れもある。

 その日、出撃した17機の零戦のうち、帰還できたのはわずか10機だった。その後に日本海軍のエース・パイロット坂井三郎[b]も重傷を負って、なんとか帰還した。宮部と井崎は、翌日出撃し、なんとか無事に帰還したが、爆撃機の方は大半が帰還できなかった。そんな戦いが連日続いた。


■7.「貴様が死ぬことで悲しむ人間がいないのか」

 10月のある日も宮部の小隊はガダルカナル攻撃に参加したが、3番機の小山上等兵は宮部の命令を無視して、敵を深追いして、グラマンを2機撃墜した。しかし、それによって燃料を使い過ぎた。

 ラバウルへの帰還途中、小山は「ラバウルに帰れそうもないから、ガダルカナルに戻って自爆する」と合図をしてきた。宮部は「何とか頑張って、帰還しろ」と合図し、燃料を節約するための高度や速度で細かい指示を小山に与えた。

 しかし、基地まであと10分という所で燃料が尽き、小山機は海上に不時着して沈没、小山は海に飛び込んだ。基地に帰還した後、すぐに水上機を向かわせたが、すでに小山の姿はなく、数匹の鱶(ふか)が泳いでいた、という。

 井崎は悔しさのあまり、宮部を問い詰めた。「どうして小山に自爆させてやらなかったのですか?」 宮部は「飛び続ければ助かるかもしれないが、自爆すれば、かならず死ぬ。死ぬのはいつでもできる。生きるために努力をすべきだ」と答えた。

「どうせ、自分たちは生き残ることは出来ません。もしわたくしが被弾したなら、潔く自爆させてください」と井崎が悔し泣きしながら訴えると、宮部はその胸ぐらを掴んで、こう言った。

__________
 井崎! 馬鹿なことを言うな。命は一つしなかい。貴様には家族がいないのか、貴様が死ぬことで悲しむ人間がいないのか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その時、不意に5歳の弟、太一の顔が脳裏に浮かんだ。泣きじゃくる顔が見えた。後にも先にも宮部に怒鳴られたのは、この時だけだった。しかし、この時の宮部の言葉は、井崎の心に深く沈んだ。


■8.「なぜ、今日まで生きてきたのか、今、わかりました」

 その後、井崎はラバウルを離れ、空母「翔鶴」の搭乗員となった。昭和19(1944)年のマリアナ沖海戦で、敵戦闘機と激しい空中戦の結果、燃料タンクを撃ち抜かれた。もはや母艦にも帰れず、せめて敵機を道連れにしてやれと、体当たりを決意した。

 その時、宮部の怒鳴り声が頭の中に響いた。「井崎! 貴様はまだわからないのか!」 同時に幼い弟の顔が浮かんだ。井崎はなんとか敵機の編隊から抜け出し、海面に不時着してから、9時間も泳いで、グアム島に泳ぎ着いた。何度も諦めかけたが、その都度、「兄ちゃん、兄ちゃん」と泣きながら呼ぶ弟の顔が浮かんできて奮い立った。

「しかし本当に私を助けてくれたのは、宮部小隊長だったと思っています」と、ベッドの上で井崎は語った。そして、こう続けた。

__________
 実は、私は、ガンです。半年前に、医者からあと3ヶ月と言われました。それがどうしたわけか、まだ生きています。

 なぜ、今日まで生きてきたのか、今、わかりました。この話をあなたたちに語るために生かされてきたのです。[1,p252]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その時、井崎の孫が大きな声で泣き出した。その母親もハンカチで目を抑えていた。健太郎の姉も嗚咽を漏らしていた。

 井崎は窓の外の空を見つめて言った。「小隊長、あなたのお孫さんが見えましたよ。二人とも素晴らしい人です。男の子はあなたに似て、立派な若者です。小隊長---、見えますか」

 しばらく後、井崎源次郎の訃報を受けとった。焼香の時、孫の誠一を見かけたが、長い髪は短くなり、金髪は黒くなっていた。言葉は交わさなかったが、健太郎に深々と頭を下げた。

 健太郎の中でも変化が起こっていた。しばらく諦めていた司法試験にもう一度挑戦してみようという気になっていた。かつて人々のために尽くしたいと弁護士を志した気持ちを取り戻したのだった。

 家族や世のため人のために自分の命を使おうと思えばこそ、その大切さに気がつくのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(475) 零戦 〜 世界の航空常識を覆した3日間
 1941年12月8日からの3日間に、世界の航空史は新しい時代を迎えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogdb_h18/jog475.html

b. JOG(174)_大空のサムライ〜坂井三郎
 撃墜王の「苦難と勇壮の物語は、万人の胸にうったえる」とニューヨーク・タイムズは評した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h13/jog174.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 百田尚樹『永遠の0』 ★★★、講談社文庫、H21
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/406276413X/japanontheg01-22/


■「命の使い方 〜 『永遠のゼロ』から」に寄せられたおたより

■華子さん(ブラジル在住)より

今回の『永遠のゼロ』の本につきましては日本の姪がすごい本と、感激して私にも送ってくれたものです。私も読書は好きですが聞いたことのない作者で、若い作者・・・ねえ?、ここ最近は芥川賞受賞の新人のものでも不消化で後味も・・・気分も・・・・なじめない、もう時代に乗り切れないない、といった感じでした。

 この本は読み出したとたんにのめり込みました。すばらしい・・・そしてさんざ涙が流れました。

 そしてそこから妻と子供五人を残して大連で召集され、終戦時にソ連(ロスケと当時はいいましたが)の捕虜になりながら収容所から逃げ帰ってきた亡き父のことに思いを馳せました。

 家の上がりかまちに立った骨と皮の父が、5歳の少女の記憶にイメージとして長く焼きついていたのは後々の家族の思い出話に繰り返されたこともあるのでしょう。

 40代近くの老兵でありながらそうして家族のもとに帰ってきてくれたのは若いときにラグビーのフォワードをしていたと言う恵まれた体力と父の強い反骨心からくる知恵の総力を持って出来たと考えていました。でもそこにくわえて家族を思う懸命な生きる執念があったのだと初めて思い至ったものです。

 今日は8月第2日曜日、こちらブラジルは‘父の日’です。・・・もうちょっとすぎましたが。思いもかけずこんな父の事をまた思い出させていただく機会になりました。本当にありがとうございました。


■編集長・伊勢雅臣より

 お父様の「家族を思う懸命な生きる執念があった」のですね。


■博美さんより

 私は今は78歳、敗戦当時は10歳で敗戦の8月まで満州新京に住んでいました。突然ソ連の越境が伝えられ新京も空襲にさらされました。10日過ぎ突然「2時間後に新京駅に集合せよ。」との通達があり、殆ど着の身着のままで駅に集まりました。直ちに無蓋車の乗せられ南下し、13日か14日に朝鮮平壌にたどり着きました。
 さて、15日は仮の宿舎の前で1台のラジヲの前に20人ぐらいが集まりました。12時から天皇陛下の敗戦のお言葉がありました。10歳の子供でしたが、その場の雰囲気はよく覚えています。見知らぬ30歳前後のおじちゃんが僕を抱きしめ、泣きながら「おじちゃんの時代は終わった。僕が大ききくなってこの悔しさを晴らしてくれ。」と言いました。

 何日か経って「あのおじちゃんはどうしたの」と聞くと、「朝鮮人に連れ去られ殴り殺された」と教えられました。

 それから1年余、父はソ連軍に殺され、弟は栄養失調で死に、母とボクとが何とか日本に帰ることができました。母子寮、小使室で暮らしながら母親の頑張りで大学へ進学できることになりました。

 夢は「技術者になってグラマンやロッキードをやっつけられる戦闘機を作りたい」でしたが当時の大学では航空機学科はなく、止むなく別の分野に進みましたが、いわゆる産業戦士として戦後復興の一翼を担うことができました。

 今は「終活」すべき歳となりましたが、最近やっと「まともな日本」になろうとする気配が見えてきました。今の若い人に言いたい。「おじちゃんの時代を超える素晴らしい日本に発展させて欲しい」と。

■伊勢雅臣より

 戦後の奇跡的復興も、こういう思いから成し遂げられたのですね。



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