国際派日本人養成講座

アクセスカウンタ

かっぱさんのBookmarkBar

zoom RSS No.733 ビルマ独立の志士と日本人(下)

<<   作成日時 : 2012/01/29 05:44   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0


「南機関や鈴木大佐らの開放の真心」は、ビルマの人々の心に深い感銘を残した。


■1.「親愛なるビルマ1500万の民衆に告ぐ」

 ビルマ独立義勇軍がバンコクで出陣式を行ったのが、1941(昭和16)年12月31日。日本の第15軍とともに、バンコクから北西に向かい、インドシナ山脈を超えて、タイとの国境沿いの街モールメンを衝いた。

「ド・バーマ(ビルマ独立万歳)」を叫びながら進軍するビルマ独立義勇軍に、行く先々で志願者が合流し、モールメンに着いた時には当初の百人が千人ほどにも膨れ上がっていた。

 南機関の鈴木敬司司令官の演出もふるっていた。ビルマには古来から、1885年に滅亡したアラウンパヤー王朝の最後の王子がボ・モージョ(雷帝)と名乗って、白馬にまたがり東方からやってきて、ビルマを解放するという伝承があった。

 鈴木司令官は自らボ・モージョと名乗って、金モールの王冠に純白のロンジー(ミャンマーの伝統的な巻きスカート)を着用し、白馬にまたがって進撃した。伝承を重んずるビルマの民衆は、「ボ・モージョ来る」と、沿道に土下座して迎えたという。[1,p280]

 翌1942(昭和17)年1月22日、第15軍司令官・飯田中将はビルマの民衆に向かって次のような布告を発した。この布告はビルマ語に翻訳されて、ラジオ放送された。

__________
 親愛なるビルマ1500万の民衆に告ぐ。・・・日本軍のビルマ進撃の目的は、最近百年間の搾取と圧政を事とせる英国勢力を一掃し、ビルマ民衆を解放して、その宿望たる独立を支援し、もって東亜永遠の安定確保と世界平和に寄与せんとするに外ならぬ。・・・

 しかして勇敢なるビルマ独立義勇軍兵士よ、今こそは祖国の独立と栄光のために決起すべき秋(とき)なるぞ。必勝不敗の大日本帝国軍は諸士とともに進軍す。進め必勝の信念の下に。[2,p110]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■2.ビルマ独立義勇軍の活躍■

 ビルマ独立義勇軍は通過する町や村で熱狂的に歓迎され、入隊志願者が続々と加わった。2月末頃にはおよそ5千人、3月8日のヤンゴン占領時には正規兵約1万人、便衣兵(制服を着ていない非正規兵)10万人に達したという。[2,p124]

 ビルマ独立義勇軍の活躍は、日本人の報道員も次のように絶賛した。

__________
(ビルマ独立義勇軍は)銃を執って皇軍の道案内役になって、国境を超え、ことに山蛭(やまびる)に悩まされつつ、道なきジャングルを突破して行ったタヴォイ(ダウエー)攻略においては、慣れた自然地形を利して、主力たる日本軍兵士も舌をまくぐらいの鮮やかな働きぶりを示した。・・・

なにしろビルマ一流のインテリ揃い、住民と同一の血を承(う)け、同一の言語を話すのだから、情報の蒐集はお手のものだし、道案内はいわずもがな、必要な物資のかりあつめ、治安の確保などには、偉大な効果を挙げた。(同盟通信社編『大東亜戦史 ビルマ作戦』)[1,p124]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■3.「ドバマ(われらのビルマ)、ドバマ」

 ビルマ独立義勇軍が民衆にいかに迎えられたか、次のような一コマが伝えられている。

 2月末、国境から200キロほど内部に入ったシェンジンという町で、日本軍の先発隊らしき一隊が近づいてくる、という情報が流れた。駐留していた英軍兵士たちは、戦ってもとても太刀打ちできないと、その日のうちに退却してしまった。町は無防備のまま、取り残された。

 次の日の明け方、町外れから「ドバマ(われらのビルマ)、ドバマ」という叫び声が近づいてきた。兵隊が来るというので、町の人々は怖がって、家の扉を固く閉ざしていた。

__________
 やって来たのは町の人たちが思い込んでいた日本軍ではなかった。ビルマ独立軍の兵隊たちであった。先頭には旗をかざしたボ・ソオアウン(JOG注: 日本軍から訓練を受けた独立志士の一人)がいた。

 ボ・ソオアウンは町の人たちにていねいな説明を試みた。自分たちはビルマ独立義勇軍の一小隊である。町の人々を攻撃するためにやって来たのではない。平和な暮らしを守ろうとやってきたのだと。

人々はやっと安心して家の戸を開け、ビルマ独立義勇軍を見ようと表へ出て来た。多くの人たちが「ドバマ、ドバマ」と大声をあげて歓迎した。[1,p121]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.ビルマ民衆の協力

 当時のビルマ人がいかに独立を熱望し、日本軍と独立義勇軍に協力したか、後に首相となるバーモウは『ビルマの夜明け』に次のような逸話を紹介している。

__________
 その間、英雄的行為も生まれた。その一つは戦時中のアジア人の間で、伝説のように語り伝えられたものである。サルウィン川での戦いの真っ最中、数人の日本人将校が、ビルマ人にボートで対岸に渡してくれるように頼んだ。船の通路は数カ所の英国側陣地からまる見えで、その射程距離にあったから、船を出すことは死ににいくようなものだった。

しかし4人のビルマ船頭が進み出た。二人の船頭と日本人将校が船底に伏せ、残りの二人の船頭はまっすぐ平然と立って櫓(ろ)をこいだ。船が川の中ほどに来て、岸からまる見えになった時、二人のこぎ手は弾雨の中に倒れた。

残る二人の船頭は一言もしゃべらず、騒がす、すぐに持ち場について漕ぎ出した。ちょうど船が対岸に着いた時、この二人も弾にあたって死んだ。これは例のない英雄的行為であった。日本の新聞ラジオは、ひろくこの実話を伝え、日本本土と東南アジア諸国で感動を呼び起こしたのであった。[1,p281]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 こうした民衆の協力を得て、日本軍とビルマ独立義勇軍は、わずか2ヶ月後の3月8日にはラングーンを制圧、その後も快進撃を続け、5月末までには約5万の英印軍と、中国から支援に来ていた蒋介石の重慶軍約10万を、ビルマ領外に追い出した。


■5.「独立は他人がくれるものじゃないんだ」

 しかし、その後、日本軍とビルマ独立義勇軍の間に隙間風が吹き始める。第15軍司令官・飯田中将は、ヤンゴン占領後の3月21日、「できるだけ速やかにビルマ独立を実現できるようご努力されたし」との電報を南方軍司令官寺内元帥に送ったが、返ってきたのは「軍政を実施すべし」という指示だった。

 大本営は、簡単にビルマに独立を与えたら、軍事物資の調達もうまくいかず、作戦行動が制限される、という考えだった。ビルマ独立義勇軍の将軍の位置についていたアウンサンはこれを知って激怒した。「日本人がこういうことをつづけるなら、われわれは反乱を起こすしかない」とはっきり口に出した。

 それを知った南機関の鈴木敬司司令官は、アウンサンを呼んでこう話した。

__________
 もし、おれがお前の立場だったら、手に入りかけた独立を絶対に逃しはせんぞ。独立はどうすれば獲得できるか、歴史を見ればはっきりしている。独立は他人がくれるものじゃないんだ。自分で勝ち取らなければならない。だから、ビルマ人が独立を勝ち取るために反乱を起こすと言ったって、なにも不思議じゃない。[2,p134]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 黙って聞いているアウンサンに鈴木司令官は話を続けた。自分が日本軍に銃を向けると、国家への反逆になってしまうから、それはできないが、そういう自分が祖国独立のために邪魔だというなら、この軍刀でまず自分を殺して、それから独立の戦いをやれ、と。

 アウンサンは、鈴木司令官がビルマにいる間は、日本に対して反乱は起こさないと誓った。


■6.鈴木司令官との別れ

 そんな鈴木司令官を、大本営は邪魔と考え、6月末に近衛師団司令部付陸軍少将として、内地に呼び返してしまった。ビルマ独立義勇軍はボ・モージョ(雷帝)こと鈴木司令官との別れを惜しんで、軍刀一振りと感謝状を送った。感謝状の最後はこう結ばれていた。

__________
 ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人をわれわれは末永くなつかしむ。将軍のビルマへの貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡んでも、われわれの感謝の気持ちは亡びることはない。

将軍が日本に帰られたら、ぜひとも日本の天皇陛下や東条首相、そして老若男女に報告してほしい。われわれビルマ人の誠意、忠誠心、勇気、日本軍への協力、日本ビルマ間の友好への努力を----。[1,p282]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■7.独立の喜び

 日本がビルマの独立を認めたのは、それから1年2ヶ月も経った1943(昭和18)年8月1日だった。遅きに失した独立ではあったが、民衆は熱狂した。独立政府の元首に選ばれたバーモウは、その光景をこう記述している。

__________
 それは言葉では言い現せないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸をふくらませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群衆がパゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。

僧たちは町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で"万歳"を叫んで、日本に対する深い感謝を現わす決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた。[1,p283]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この年の末、満洲国、中華民国、タイ、フィリピン、ビルマ、そして自由インド仮政府のそれぞれの代表者が東京で一同に会する大東亜会議が開かれ、アジアの自主独立と万邦共栄を謳った大東亜宣言が発表された。バーモウはビルマ代表として参加している。[a]


■8.「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」

 翌1944(昭和19)年3月、インド独立運動に点火しようと、日本軍とインド国民軍が合同で、北ビルマから東インドに進攻しようとするインパール作戦を始めたが失敗に終わり、敗走する日本軍を追って英印軍がビルマに戻ってきた。[b,c]

 この状況に、それまで日本とともに戦っていたビルマ独立の志士たちも分裂した。バーモウ内閣で国防大臣を務めていたアウンサン将軍は、敗北必至の日本と心中するわけにはいかないとして、日本軍に対する反乱に立ち上がった。

 バーモウは最後まで日本側について、終戦時には日本に亡命した。日本軍の訓練を受けた志士の一人ミン・オンは日本を裏切ることはしのびないと自決した。

 アウンサン将軍にしても、日本軍への攻撃に立ち上がった際、バーモウに長い手紙を書き、その中に「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」「日本軍のビルマ撤退が懸命な方法」「日本を責めない」等と書き送っている。[1,p290]

 戦後、鈴木敬司将軍が、ビルマに連行され、英軍によって軍事裁判にかけられそうになった時、アウンサンは「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛反対し、釈放させた。


■9.「アウンサンの旗」

 日本の降伏後、ビルマはふたたびイギリスの植民地に転落した。アウンサンは植民地政府の一員となりながらも、粘り強く独立交渉を続けた。しかし、1947年7月、祖国の独立を見る前に何者かに暗殺されてしまう。

 その2年前に生まれていたのが、末娘アウンサンスーチー女史である。女史は来日して父親の事績を研究し、現在はその遺志を継いで、民主化運動の指導者となっている。

 ビルマが英国から独立を回復したのは1948年だが、その時の国軍の最高司令官ネウィンも、日本軍の訓練を受けた志士の一人だった。ネウィンはその後、クーデターを起こして政権を握るなど、長く支配者として君臨した。

 ネウィンは1981(昭和56)年、鈴木敬司司令官の未亡人、および南機関関係者6名をビルマに招き、ビルマ独立義勇軍生みの親として、ビルマ最高の栄誉である「アウンサンの旗」という勲章を授与している。

 ビルマ独立後に母国に戻ったバーモウは、その著書『ビルマの夜明け』でこう書いた。

__________
 もし日本が武断的独断と自惚(うぬぼ)れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの開放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。[1,288]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 確かに惜しむべしとは思うが、それでも「南機関や鈴木大佐らの開放の真心」は、ビルマの人々の心に深い感銘を残した。その真心からは、現代の我々にも学ぶ所があるだろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(338) 大東亜会議 〜 独立志士たちの宴
 昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初めて一堂に会した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog338.html

b. JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)〜 シンガポールへ
 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog508.html

c. JOG(509) インド独立に賭けた男たち(下)〜 デリーへ
 チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog509.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』★★★、展転社、S63
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4886560458/japanontheg01-22/

2. ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』★★、中公新書、H2
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4121009800/japanontheg01-22/


■「ビルマ独立の志士と日本人(下)」に寄せられたおたより

■ヒロさんより

 ビルマで仕事をしているとき、インパール作戦敗退の敗残兵に対
して、ビルマの人は食事や水を敗残兵に無償で振る舞い、多くの
日本敗残兵が命を長らえた話を聞いた。

 戦争ではビルマなど多くの東南アジア諸国を西欧の植民地から解放した業績は末永く後生に伝えると同時に、ビルマ国民の暖かい心も伝えるべきではないでしょうか。このあたりを史実に基づいてレポートして戴けたら幸いです。

■編集長・伊勢雅臣より

 ビルマは親日国とのことですが、それは我々の先人の遺産です。

 読者からのご意見をお待ちします。
 以下の投稿欄または本誌への返信として、お送り下さい。

http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P36920582

====================
Mail: ise.masaomi@gmail.com
または本メールへの返信で
姉妹誌「国際派日本人のための情報ファイル」JOG Wing
http://blog.jog-net.jp/
購読解除: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/quit_jog.htm
相互広告: 弊誌読者の参考になるメルマガとの相互広告歓迎。
====================

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by アジアに生きる大東亜戦争 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
No.733 ビルマ独立の志士と日本人(下) 国際派日本人養成講座/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる