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zoom RSS No.721 封建制度が近代社会を生んだ

<<   作成日時 : 2011/10/30 05:17   >>

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 封建制の発達したヨーロッパと日本で、近代社会が生まれた。


■1.島崎藤村の見た英国植民地

 大正2(1913)年2月、作家・島崎藤村は神戸港からフランスに出発した。同和問題を扱った大作『破戒』で作家としての地位を確立していたが、この洋行体験から藤村は日本の歴史に対する見方を大きく変えていく。

 藤村の乗った船は、上海、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ運河を経由したが、寄港した諸都市はほとんどがイギリス領であった。都市としての繁栄ぶりと、そこに住む原住民の悲哀を見て、藤村は後にこう述懐している。

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 白人の奴隷をもって甘んずる黒奴なぞはあさましいものだし、左様でない土人は見ても可痛(いたいた)しい。その外観の繁昌と、内部の零落とは、私の行く先にあった。[1,p129]
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 なぜヨーロッパ諸国、とりわけイギリスがこれほどに勢力を伸ばしているのか、藤村はパリでの滞在体験を踏まえて、こう考えた。

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 東洋の方で肝心な港はたいてい今ではイギリスのものだね。・・・最初のヨーロッパの航海者なんてものは必ずしも他(ひと)の国を奪(と)るつもりではなかったんだね。

 ただ、奴らは強いものを一緒に持って行ったんだね。実際ヨーロッパの方に行ってみると、強い組織的なものがあるからねえ。そういう強いものが押し込んで行くと、組織的でないような弱いものは否でも応でも負けてしまう。

だからケープ・タウンでも、ダーバンでも、コロンボでも、シンガポールでも、結局強いものが支配するようになっちまう。そいつらが僕らの国の方まで延びてきたんだね。[1,p126, 漢字表記等は現代風に一部改め、以下同]
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■2.「あのオヤジたちに強いものがあった」

 植民地とされたアジア・アフリカの「組織的でないような弱いもの」を打ち破ったヨーロッパ人の持つ「強い組織的なもの」とは何なのか。

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 遠い外国の旅に出て来て見ると、子供の時に別れたオヤジのことなぞがしきりと恋しくなる。僕らが今日あるのも、ああしてオヤジの時代の人たちが頑張ってくれたお陰だ、インドあたりのように外来の勢力に負けてしまわなかったお陰だ、

そう思うと僕はあの頑固な恐ろしいオヤジに感謝するような心持ちを持って来た。多少なりとも僕らが近代の精神に触れうるというのは、あのオヤジたちに強いものがあったからだ。それに触れうるだけの力を残して置いてくれたからだ。[1,p134]
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 藤村の父・島崎正樹は木曽馬込の大庄屋の家に生まれ、国学を学び、尊王攘夷運動に挺身した。子供時代の藤村にとって、「頑固な恐ろしいオヤジ」は、いかにも「強いもの」であった。

 西洋諸国が「強い組織的なもの」を持って、弱いアジア・アフリカ大陸を次々と植民地化したが、我が国だけはそれに負けない「強いもの」を持っていて、独立を守った。自分の父親の世代の「強いもの」を、藤村は欧州で思い起こしたのである。


■3.「我が国の今日あるは封建制度の賜物」

 それでは、なぜ西洋諸国と日本だけが「強いもの」を持てたのか。
 藤村はパリに住み、在住の日本人と歌劇や音楽会に行き、カルチェ・ラタンの喫茶店で文明論に花を咲かせ、「パリ日本人村の村長」と呼ばれるまでになった。

 こうして西洋と日本の歴史・文明を様々に比較して、藤村がたどり着いたのが、以下の結論だった。

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 幸いにしてわが長崎はシンガポールたることを免れたのだ。それを私は天佑(てんゆう、天の助け)の保全とのみ考えたくない。歴史的の運命の力にのみ帰したくない。

その理由を辿って見ると種々なことがあろうけれども、私はその主なるものとして我が国が封建制度の下にあったことを考えてみたい。実際我が国の今日あるは封建制度の賜物であるとも言いたい。・・・

われわれの国がインドでもシナでもないのは、ああいう時代を所有したからではないか。今日の日本文明とは、要するにわが国の封建制度が遺して置いて行ってくれたものの近代化ではないか。[1,p131]
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■4.モンゴル軍が歯が立たなかった地域

 西洋諸国の強さは、大砲や黒船、航海術など近代技術によるものと考えがちだが、かならずしもそうとは言えない。幕末の我が国には、対等に戦える大砲も黒船もなかった。しかし、あっという間に西洋の近代技術を我がものとして、日清・日露両戦役を勝ち抜き、世界の5大国の一つにのし上がった。

 近代技術は、西洋諸国の強さの一部であるが、それらは彼らがもっていた「強さ」がもたらしたものと考えたほうが良い。

 さらに西洋諸国と日本の強さは、近代技術が登場する前から発揮されていた、という史実がある。モンゴルの世界征服への抵抗である。[1]の著者・今谷明氏はこう説く。

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 モンゴルの世界征服は、13世紀後半のユーラシア大陸に激震をもたらした、モンゴル軍の騎馬が蹂躙(じゅうりん)するところ、かつてない広大な大帝国が形成され、“タタールの平和”が謳歌されたというが、中央アジアから東南ヨーロッパにかけて、死屍累々(ししるいるい)の惨状と白骨散乱する荒野を残したのも確かである。

 しかし“無人の野を行く”モンゴル軍も、まるで歯が立たぬ地域もあった。一つが、エジプトを本拠とするマムルーク朝スルタンであり、もう一つが極東の日本、最後に西ヨーロッパのドイツ(神聖ローマ帝国)であった。[1,p3]
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■5.元軍を跳ね返した日本の「強さ」

 元寇(げんこう)、すなわち鎌倉時代に来襲した元(モンゴル)の水軍はほとんど台風によって沈められ、それが後に「神風」と呼ばれるようになった、と多くの日本人は理解しているが、それは史実としては正確ではない。

 弊誌207号「元寇 〜鎌倉武士たちの『一所懸命』」[a]で述べたように、自らの命を懸けても、子孫のために所領を守ろうとする日本の武士たちの闘志は凄まじかった。彼らは続々と馳せ参じて、元軍に勇猛果敢に襲いかかった。

 元軍は文永の役(ぶんえいのえき、1274年)と弘安の役(こうあんのえき、1281年)の二度とも九州上陸を阻止され、特に第二次の遠征では二ヶ月近くも海上で足止めされている間に、暴風雨に見舞われたのである。

 元軍の息の根を止めたのは神風だったが、神風がなくとも元軍の上陸は困難で、いずれは撤退に追い込まれただろうと指摘されている。[1,p46]

 また、日本側の勝因としては、武士たちの勇猛果敢ぶりとともに、わずか5ヶ月で博多湾南岸20キロにわたって高さ2メートルの石築地を築いたり、朝廷に奏して寺社の荘園や公家支配下の武士も直接幕府が指揮する体制を作り上げていた幕府の統率力も挙げられている。

 一人ひとりの武士の高い戦意と、日本国が一体となって立ち上がった団結力が、元軍をはね返した日本の「強さ」であった。


■6.モンゴル軍を食い止めたドイツとエジプト

 元寇の50年ほど前、モンゴル軍はロシア、ポーランドを“無人の野を行く”が如く、破壊、殲滅しつつ、神聖ローマ帝国に迫った。1241年、帝国領東端近くのワールシュタットでモンゴル、ドイツ両軍数万が激突したが、ドイツ側の大敗に終わった。

 しかし、そこからのドイツ側の抵抗が凄まじかった。たとえば、現在ではチェコ東部に位置するオルミュッツ城では、「百戦の老将」ステンベルグが、近隣から集まってきた1万2千人強の兵とともに、徹底した籠城戦術をとった。

 モンゴル軍は攻めあぐね、その包囲網が緩んだところをステンベルグは夜襲して、大損害を与えた。3日後、モンゴル軍は撤退して、ハンガリーに転進していった。

 神聖ローマ帝国東端を守る諸城では、同様の籠城戦が展開され、モンゴル軍の西進を食い止めたのである。

 またモンゴル軍は、1260年にエルサレム北方40キロの地点で、エジプトのマムルーク王朝10万の大軍と激突し、大敗した。この後も、モンゴル軍は何度も反抗を試みたが、ことごとく跳ね返されている。

 マムルーク王朝の兵士は、武勇を誇り、スルタンに忠誠を誓い、互いに強い仲間意識を持っていた。鎌倉武士ときわめてよく似た武人であった。

 以上、モンゴル軍の侵攻を食い止めた日本、ドイツ、エジプトの共通性について、[1]の著者・今谷明氏はこう指摘している。

__________
 それは一口にいって、封建制が強く発達した地域であったということである。中国やペルシャなど、官僚制が行き渡っていた地域、あるいは東欧のように建国ほどなく、封建制も緒についていない地域は、たやすく蒙古軍に踏み破られた。[1,p75]
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■7.封建制が近代文明を生んだ

 封建制が強く発達した地域で近代文明が芽生えたのは、偶然ではない。

 封建制とは、主君(西洋では国王、日本では将軍)が家臣(騎士、武士)に土地所領の権利を認め、その代償として、家臣が主君に忠誠を尽くし、一朝事ある時は馳せ参ずる、という相互関係を基本とする。日本の武士やヨーロッパの騎士が、モンゴル軍と果敢に戦ったのも、自らの所領を守ろうとする自立的な姿勢からだろう。

 土地所有に関する権利や国王に対する義務から、近代国家に不可欠な「国民の権利と義務」という考えが発達する。

 封建制を経験していない地域では、国土も人民も皇帝の所有物である、という考えから抜け切れない。私有財産や個人の人権を認めないのは、共産主義には相性の良い考え方だが、これでは近代的な法治国家は生まれない。

 家臣の主君に対する奉公と言っても、主君側がきちんと家臣の財産を守るという義務を果たしていることが前提となる。ヨーロッパでは、王権を振りかざして家臣の権利を侵害するような主君に対しては、家臣同士で合議して、抵抗することが行われた。これが近代社会の議会に発展する。

 日本でも、家臣どうしで諮って、主君を幽閉したり、隠居させたりする「主君押込め」がしばしば行われた。したがって、封建社会は合議を通じて、議会制民主主義を発展させる土壌となった。[b]


■8.なぜ封建社会から近代国家が生まれたのか

 こうして見ると、封建制を経験しなかった国々、たとえばロシアや中国で、なぜいまだに国民の人権が守られず、法治主義や議会制民主主義が根付かないのかが、よく理解できる。

 両国とも、有人宇宙船や核ミサイルを飛ばす先端技術や、一攫千金を許すワイルドな資本主義は十二分に発揮している。これらは古代的な専制国家しか経験していなかった国でも、持ちうる能力なのである。

 しかし国民一人ひとりが自らの義務を守り、また互いの権利を尊重しようとする近代的な国民意識、および、議会を通じて制定された法律には従うという議会制民主主義こそは、国民一人ひとりの意識の問題であり、数百年の封建社会を経験しなければ、容易には定着しないものなのであろう。

 ヨーロッパと日本での封建制が数百年かけて育てたのは、「自立した人間が互いに連帯して自らの意思で共同体のために尽くす」、という国民意識であった。それこそが封建制の強みであり、それがそのまま近代社会の議会制民主主義と法治国家の土壌となったのである。


■9.封建制は国家的統一を必要とする

 しかし封建制だけでは、近代的国家は生まれない。主君と家臣の主従関係だけでは、たとえば戦国時代のように諸侯が分立して争いあう、という状況になってしまう。西洋史家の堀米庸三は、この点に関して、次のように指摘している。

__________
 封建制度はそれに先立つ何かある国家的統一なしには国制たりえないことを示すとともに、封建政治じたいがこの先行的統一に寄生せざるをえない半面のあることを明らかにするからである。

わが国の場合、実質的には無力に近い皇室が最後まで存続しえたのは、封建制度のもつこの要請によるものである。[1,p247]
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 皇室のもとでの封建制から近代国家が生まれた。そう知れば、「多少なりとも僕らが近代の精神に触れうるというのは、あのオヤジたちに強いものがあったからだ」という藤村の感謝の念を、われわれも共有することができるだろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(207) 元寇 〜鎌倉武士たちの「一所懸命」
 蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない鎌倉武士たちだった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog207.html

b. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog082.html

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
たまたま目にしたページでしたが、目から鱗 でした。
鎌倉幕府は、1192ではなく1185だそうですね。
朝鮮嫌い
2014/06/06 11:55
No.721 封建制度が近代社会を生んだ 国際派日本人養成講座/BIGLOBEウェブリブログ
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