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zoom RSS No.178 日韓の架け橋・李方子妃

<<   作成日時 : 2001/02/25 22:45   >>

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 日本皇族から、朝鮮王朝最後の皇太子妃、そして韓国障害児の母へ。

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■■■ 本稿はステップメール講座「韓国問題 歴史編」に収録されています ■■■

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「韓国問題 歴史編」の目次、およびお申し込みは以下のページからどうぞ:
JOG Step 韓国問題−歴史編 開講
http://blog.jog-net.jp/201402/article_5.html
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■1.毅然たる覚悟■

 大正5(1916)年8月3日朝、大磯の別邸で夏を過ごしていた梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)妃は、いつものように新聞を拡げると「あっ」と声をあげて、両手をわなわなと震わせた。

「李王世子の御慶事−梨本宮方子女王とご婚約」

 という大見出しとともに、まぎれもなく自分の袴姿の写真が掲載されている。隣には、李王世子、すなわち大韓帝国皇太子・垠(ウン)殿下の写真が並んでいる。

 東京に帰った方子妃は、父守正王から正式に婚約を告げられ、次のようにきっぱりと答えた。

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 よくわかりました。大変なお役だとは思いますが、ご両親様のお考えのように努力してみます。
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 母・伊都子妃は、わずか15歳の娘の毅然たる態度に、言葉もなくただ涙された。この時から日韓の狭間で波乱の人生が始まるのだが、方子妃はまさにこの毅然たる覚悟通りに、日韓の架け橋としての役目を果たし続ける。

 2学期が始まると、学習院では「皇太子妃におなりになる。でも朝鮮のお方がお相手ではね」と学友達はささやきあっていた。そこに方子妃が髪を中心から分けて結う韓国式の髪型で、昂然と胸を張って登校してきた。みなはその覚悟の見事さに感心した。

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■2.韓国併合■

 皇太子垠は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学した。この2年前に、日露戦争に勝利した日本は、大韓帝国を保護国としていた。朝鮮半島の不安定が日清、日露両戦役を引き起こしていただけに、英米両国はこの措置を歓迎した。

 大韓帝国側から見れば、垠を人質に取られた格好だったが、わが国は朝野をあげて歓迎し、すべて日本皇太子と同等の扱いをした。特に明治天皇、皇后は垠を可愛がられ、よく御所に召されて、贈り物を与えられた。

 太子大師(皇太子の主任教師)に任命されていた伊藤博文が、「垠のためにならないから」と断っても、両陛下はやめられなかった。伊藤自身も孫のように垠を慈しみ、安重根に暗殺された後、垠はよく「伊藤公が生きておられたら」と語っていた。

 明治42(1909)年7月6日、韓国併合が閣議決定された。アメリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。

 後の首相・原敬は「今日決行するの必要ありや否や疑はし」と評し、小説家・有島武郎は「この日、朝鮮民族の心情やいかんと涙する」と記している。


■3.旧朝鮮王妃としての責任■

 併合後も、李王家は皇族の一員として高い地位を与えられた。敗戦時、総理大臣の年俸が1万円だった時に、李王家の皇族費は120万円と皇室に次ぐ巨費である。方子妃の生家梨本宮家などはわずか3万8千円に過ぎない。さらに本国朝鮮に150万坪を越す土地や4千万円以上の預金を所有していた。

 垠の父、李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだという。方子妃は皇族であり、そして何よりも当時皇太子だった昭和天皇のお后候補の一人とされていた方である。「日本皇太子と同等」という扱いはここにも及んでいた。

 また韓国の宮廷では、王妃の一族が実権をとるために、血で血を洗う勢力争いが絶え間なく続いており、日本皇族の女王殿下をいただけば宮廷も穏やかに治まるだろうと安堵されていた。

 大正9(1920)年4月28日、東京六本木・鳥居坂の李王邸で結婚式が執り行われた。婚儀に反対する朝鮮人大学生が、ピストルと爆弾をもって李王邸潜入を企てたが、朝鮮人刑事が検挙して事なきを得た。

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 王冠をのせた瞬間、思わず身がひきしまり、同時に旧朝鮮王妃としての責任が、重くのしかかってきたのを感じました。
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 方子妃は自伝にこう述べている。

■4.王子晉の死■

 垠殿下と方子妃は本物の愛情を育てて行かれた。2年後、王子晉(チン、ただし「しん」と呼ばれていた)が産まれ、一家は初めて朝鮮に帰ることになった。生後8ヶ月の乳児を連れて帰る事に、母伊都子妃は最後まで反対されたが、ぜひ晉殿下も一緒にという朝鮮側の強い要望に押し切られてしまった。

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 その心配も朝鮮側の熱烈な歓迎に吹き飛び、元気いっぱいの晉はかわいい若宮様と女官達にも大変な人気であった。

 2週間にわたる数々の行事も終わって、いよいよ明日はこの地を去ると思えば、名残りが惜しまれてきて、なんとはなしに寂しさをおぼえたのは、殿下のみならず、私にとっても晉にとっても、この国、この地がふるさとであることを、心でも、肌でもたしかめることができたからでしょうか、、、
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 しかし、悲劇は出発前夜、お別れの晩餐会の後にやってきた。二人が宴から戻ると、侍従が半狂乱になって「若宮様のご容体が!」と叫ぶ。無我夢中で駆けつけると、晉は青緑色のものを吐き続けていた。そして3日後、激しい雷雨の中を晉はわずか8ヶ月の生命を終えた。

 日本人の医師達は、急性消化不良と断定した。しかし、出発の前の晩、細心の警戒が最後にゆるんだのを狙っていたように起きただけに、方子妃はじめ多くの人は、毒殺に違いない、と思った。


■5.幸福の日々■

 昭和6(1931)年12月29日、2度の流産を乗り越えて、男子玖(ク、ただし普段は「きゅう」と呼ばれていた)誕生。垠殿下は方子妃の手をとられ、「ごくろうだったね」とただひとこと。方子妃はよろこびで涙ぐんだ。皇室典範は、男子がいないときは王家廃絶をうたっており、朝鮮王統の存立がかかっていたからである。方子妃は次の歌を詠まれた。

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つもりたるととせ(十年)のなやみ今日晴れて高き産声きくぞ嬉しき

 必ずいつの日か、朝鮮王国の血を受け継いだこの子に、しっかりと父祖の国の大地に立てる日を迎えさせねばならない。
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 との悲願を心の底に深く刻みつけた。

 昭和10(1935)年、垠殿下は宇都宮第14師団歩兵第59連隊連隊長として赴任、方子妃も玖とともに宇都宮に住む。農家の人達と気軽に話をしたり、スキーに夢中になったりと、しばしの幸福の日々が続いた。

 昭和18(1943)年、第一航空軍司令官に任命される。垠殿下は、部下には思いやり深く、上官にはよく尽くし、事にあたって動ずることなく、王者の風格があった。

 幼年学校の同期生の一人は「少なくともわれわれ軍人、殊に同期生にとっては、最も親しい敬愛する宮様であって、人質とか異国人とかいった感情は露ほどもなかったのが事実である」と語っている。立派な日本軍人、理想的な日本皇族として、ふるまわれていた。

 また人材育成にも心を砕き、日本留学中の朝鮮人留学生のための寮を作り、毎年10万円もの奨学金を下賜されていた。


■6.終戦後の臣籍降下■

 昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると、占領軍司令部は各皇族の特権の剥奪にかかった。宮内庁から支給されていた歳費は停止され、高額の財産税が賦課された。李王家も、昭和天皇が特に行く末を案じられたが、皇族の身分を奪われ、財産の大半を財産税として取り上げられ、残った宅地などもペテン師に奪われてしまった。

 方子妃は、これからは私が強くなって殿下はそっと静かに、したいように暮らしていただこう、戦うのも私、守るのも私なのだ、と決心した。

 昭和25(1950)年には、垠殿下はマッカーサーに招かれて来日した大韓民国初代大統領・李承晩と会談をした。李王朝につながる血統を自慢していた大統領は、国民の同情を集める垠殿下にライバル意識を持ったのか、冷たく「帰国したいなら帰ってきなさい」と言い、殿下は落胆して帰国をあきらめた。

 昭和35(1960)年、李承晩は大統領選4選に成功したが、不正選挙を怒る学生革命により失脚、翌年クーデターに成功した朴正煕が、この3年前に脳血栓で倒れた垠殿下の容態を心配し、生活費、療養費を韓国政府が保証するので、帰国されたいと連絡してきた。


■7.反日感情渦巻く韓国へ■

 昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふる出迎えの人並みも、目には入らなかった。

 たとえ一歩でも半歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃は切ない思いをした。

 当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。

 方子妃が勝手が分からずに、使用人にまで丁寧に頭を下げると、たちまち非難の的になった。「チョッパリ女出て行け」などと罵倒されたこともあった。チョッパリとは豚足のことで、足袋で草履を履いた足はブタのひづめと同じだというのである。


■8.障害児の教育を始める■

 そんな中で、方子妃は精神薄弱児の教育を始める。ポリオなどで麻痺した子どもたちは、家族の恥として家の中に閉じこめられていた。方子妃はその子供らの自立能力を引き出し、育て上げることを目指した。

 新聞に心身障害児募集の公告を出すと、たった一人8歳の精神薄弱の女の子の応募があった。交通費程度で来てくれる優秀な若い先生を見つけ、また場所も延世大学の一隅を間借りできた。机などは古道具屋を廻って調達した。

 あの家にポリオの子供がいる、と聞くと方子妃は訪ねていく。おびえた眼で迎えられた事もたびたびだった。それでも1年して、聾唖や小児麻痺の子どもが10人ほども集まった。

 政府から支給される生活費は、垠の入院費と生活費でほとんど消えてしまう。方子妃は資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼を売ることを始めた。足踏みバーナーで長時間火を起こしていると、足が腫れ上がった。夏の暑い日には窯の熱気を浴びて、汗だくだくになる。すでに60代半ばの方子妃には重労働であった。

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■9.韓国障害児の母■

 生徒数が多くなると、新しい土地を探し、建物を建て、「慈恵学校」が正式に発足した。より多くの資金を集めるために方子妃は王朝衣装ショーを始め、自らも宮中衣装を着て海外を廻られた。これには、旧朝鮮王朝の権威と誇りを大事にしてもらいたい、と非難が集中した。しかし、妃殿下はそんな非難をよそに80歳を過ぎても海外でのショーを続けられた。

 このような方子妃の努力で慈恵学校は形を整え、児童数150名、校地4千坪、教室や寄宿舎以外に、豚舎、鶏小屋、農場まで備える規模に成長していった。

 方子妃が日本への募金旅行から帰った時の帰った時のことである。風呂場をのぞくと、せっけんの泡をつけた子どもと、お湯のしずくをしたたらせた子どもが抱きついてくる。方子妃はよそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、子どもたちを抱き寄せ、「ただいま」と一人一人の顔をのぞき込む。

 一緒に訪れた在日韓国人の権炳裕は、この光景を見て胸がつまり、この方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったという。権はその後の在日大韓民国婦人会中央本部会長である。

 平成元(1989)年、方子妃は87歳で逝去された。5月8日、古式に則って千人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王宮から王家の墓までの2キロの道を進んだ。墓にはすでに19年前に亡くなられた垠殿下が待っている。韓国からは姜英勲首相、日本からは三笠宮同妃両殿下が参列され、多くの韓国国民が見送った。[2]

 日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、さらに「韓国障害児の母」と数奇な運命を辿られた方子妃は、「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べられている。日韓の架け橋になろうとの15歳の時の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれたのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(005) 国際交渉の常識
 日本の朝鮮統治の悪しき遺産?!
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h9/jog005.htm

b. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発による食料の増産が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_2/jog056.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「朝鮮王朝最後の皇太子妃」★★、本田節子、文春文庫、H9.7
2. 「日韓2000年の真実」★★★、名越二荒之助、国際企画、H9.7



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